朝倉やさ子氏が、第二次世界大戦の終戦を北朝鮮で迎え、日本に引き揚げてきた幼い頃の経験を、兄達からの助けを借りながら書き留めた貴重な記録。(有)豊中駅前まちづくり会社が発行する『豊中駅前まちづくりニュース』に、2017年1月から12月まで連載。
【北朝鮮逃避行:23】「北朝鮮逃避行」を書き終わって(2017年12月)
太平洋戦争が終わって70余年、今なお、戦争の、特に人の心に傷は深く深く刻み込まれていること、その体験は語り、発信していかなければ、と、改めて痛感しています。 私、この度、思いがけなく「北朝鮮から引き揚げてきた時のことを書 […]
【北朝鮮逃避行:22】(2017年12月)
【追記2】母が私に話してくれたことの中で、「うちは逃げるとき何も持ってなかったけど、持ってる人たちも途中で朝鮮人が道にずらっと並んで待ち構えていて取っていたので一緒だった」「あんたは緑便ばかりしていたので、育つのかしらと […]
【北朝鮮逃避行:21】(2017年12月)
【追記】こうして、兄達からの話を書き綴りましたけれど、兄達の話を聞いて、改めて私は逃避行のことをほとんど覚えていないのだと分かりました。 北朝鮮にいるときの幼い思い出としては、段飾りのひな壇を飾ってもらった時、祖母が「こ […]
【北朝鮮逃避行:20】(2017年11月)
父、母、2人の兄は一週開後に、兵庫県の明延に行きました。明延の社宅から兄たちは学校に通い、父は器用に家財などを作ったりして、しっかり3ヶ月の休暇を過ごしました。私は祖母としばらく服部におり、いつごろからか、祖母と明延に行 […]
【北朝鮮逃避行:19】(2017年11月)
貨物船は底と甲板の間に何段か床があったのでしょうか。私達家族は一番下ではなく、中程だったそうです。貨物船に荷物は何も載せないで、人間、すなわち私たちだけを乗せました。食事は1日2回でした。博多港に止められている間にハガキ […]
【北朝鮮逃避行:18】(2017年10月)
北朝鮮からの山道のあちこちに立っていて、北朝鮮側から来た人に声をかけ、確かめて、案内してくれていたのです。 北から南に入る山越えのときの事を、長兄は、「長かったわ。真っ暗でなあ。まだか、まだかと思ってなあ」という長兄の話 […]
【北朝鮮逃避行:17】(2017年10月)
私は今思えば、後になって母が私に話していたのは、「この時のこと」なのだなと思うことがあります。「うちは何も持って出なかったけど、途中で朝鮮人がずらっと並んでいてね。持ってる人の品物をみんな取って行っていった」。 朝鮮人も […]
【北朝鮮逃避行:16】(2017年9月)
船で逃げた人も、ここで捕まりました。日本人会の世話人は順川に連れ戻されました。翌日は雨になり雨宿りが出来なくて大変でした。ここで、一晩か二晩止められましたが、空き家になった旭硝子の社宅一帯は朝鮮人に荒らされていて、戻って […]
【北朝鮮逃避行:15】(2017年9月)
順川ではずっと、お風呂に入っていません。夏は大同江で泳いだのですが、冬はどうしていたのか、風呂に入った記憶はありません。兄達に聞いても、下のほうに風呂はあったらしいが、入った記憶はないそうです。 毎晩、のみ・シラミ取りを […]
【北朝鮮逃避行:14】(2017年8月)
母は以前に家族が世活になった寮で、賄いか掃除婦をして働いていました。その寮はソ連兵の宿になっていたのですが、ある目のこと、母が長兄に「仕事が終わる頃、4時か5時頃に寮に来るよう」に言ったので、夕方に行くとゴミ捨て場に連れ […]
【北朝鮮逃避行:13】(2017年7月)
それは、おばあさんが散歩中に天日干ししている所を見て、「これなあに?」って聞かれてので、「逃げるときの食料を作っているんです」と答えたら、そのおばあさんが日本人会に駆け込み、それで日本人会が知ることになったのです。清津組 […]
【北朝鮮逃避行:12】(2017年7月)
紙の上にたばこを置いて、鉛筆ぐらいの棒を芯にして、くるくる巻いたら直ぐできるのです。おじいさんはそれを並べて積んで置いておくので、長兄は友達3~4人とで夜に盗んで吸っていました。見つかってすごく怒られました。次兄はたばこ […]
【北朝鮮逃避行:11】(2017年6月)
最初、我が家6人は4畳半の部屋だったのですが、後で3畳の部屋に変わりました。次兄はこの3畳の部屋には押入れがあったと言い、「都合が良かった。こふき芋を作ってこの押入れで隠れて食べた。家族だけで隠れて食べた記憶がある」とい […]
【北朝鮮逃避行:10】(2017年6月)
うちの家族は一番上の家に入ったのですが、その3畳、4畳半、6畳、6畳の家に5家族が入りました。長屋になっていた隣には清津から来た家族ばかりではなく、順川にいた2家族も入りました。旭硝子の人や順川に暮らしていた日本人は、持 […]
【北朝鮮逃避行:9】(2017年5月)
次兄の話として、演武場から旭硝子の社宅に変わるとき、皆が先に行って、祖母と次兄が後から行くことになっていました。しかし、次兄が行くとき、祖母から「ちょっと、買い物をしてくるから、ここで待っててくれ」と言われていたのですが […]
【北朝鮮逃避行:8】(2017年5月)
あるとても暑い日の夕方、母が長兄に「三郎が泣くので、ちょっと、おんぶして涼しい所に連れて行ってやってよ」と頼みました。長兄は、おんぶして外へ出ました。翌日、午前中に母が「三郎の呼吸がおかしい」と言って騒ぎ出しました。三郎 […]
【北朝鮮逃避行:7】(2017年4月)
私が中学か高校のとき、父が笑いながら話していたことを思い出しました。この頃の話だと思うのですが、父は補助憲兵だった事。2人で組んで山(森の中?)に入って行ったとき、2人で相談したそうです。このまま、銃をもっていたらまずい […]
【北朝鮮逃避行:6】(2017年4月)
兵隊がいたから心丈夫でしたが、兵隊は鉄に弾を詰めていました。兵隊は「そこには神社がある。朝鮮人が神社を焼いて騒いでいる」と言いました。武装解除になって無かったので会社の寮には何人か兵隊がいました。 赤ちゃんがここで何人か […]
【北朝鮮逃避行:5】(2017年3月)
少し動いて、港町の元山(朝鮮の読み方、ウオンサン)に止まっている15日の昼頃、誰ともなく「ラジオで休戦になったという放送があったらしい」との噂が車両内に流れました。子ども心に兄は、「ああそうか、一休みして又するのか、休戦 […]
【北朝鮮逃避行:4】(2017年3月)
13日のまだ明るい夕方に乗ったのですが、走りません。2つか3つか先の駅、羅南で止まったまま、翌日の午後になっても、動きません。ぎゅうぎゅう詰めの背車の中で、じっとしていました。昼頃、この羅南の駅で「在郷軍人は全員降りろ」 […]
【北朝鮮逃避行:3】(2017年2月)
8月13日、お盆の日の昼頃(お盆の入りやからといって、お盆の準備をしていたので間違いない、と長兄は言う)海のほうから、ぽんぽんと音がし出した。ところどころ、火の手が上がっていた。下に見える道路を人が沢山歩いている、道一杯 […]
【北朝鮮逃避行:2】(2017年2月)
ソ連が参戦するまではアメリカの偵察機が、一機たまに来るぐらいで飛行機雲が綺麗やなぁと眺めていた。日本の方での被害の情報は届いていたが、子供にとっては無関心だった。 ソ連が参戦してからは、空襲警報は解除になっても、警戒警報 […]
【北朝鮮逃避行:1】(2017年1月)
今回から、第2次世界大戦の終戦を北朝鮮で迎えて日本に引き揚げてきた幼い頃の経験を、微かな記憶を頼りに今や高齢になった兄達からの助けを借りながらも書き留めた昔乙女の『北朝鮮避行』を連載します。 朝倉やさ子 昭和20年8月1 […]