【北朝鮮逃避行:2】(2017年2月)

ソ連が参戦するまではアメリカの偵察機が、一機たまに来るぐらいで飛行機雲が綺麗やなぁと眺めていた。日本の方での被害の情報は届いていたが、子供にとっては無関心だった。
ソ連が参戦してからは、空襲警報は解除になっても、警戒警報は解除になることは無かった。空襲警報とは敵機が来るときで、そのときは防空壕に入るように言われていた。偵察機の飛行機の早さはすごく早かった。それまでとは全然、問題にならない。「ひゃ~早いなあ」とびっくりした。が、攻撃される事はなかった。警戒警報のときは「半行機は飛んでないが、来るかも知れないので注意しとけ」と言う意味だった。

我が家の隣は空き地で祖母は、そこに豆を作っていた。そこと道路一つ隔ててクラブがあった。クラブは日本から来た偉い人の宿泊施設で専属の職員がいた。(時々、そこで玉突きなどのゲームがされたりしたが、父は賞状をもらってきたりしていた)そのクラブの回りは原野で、ソ連参戦後、そこに防空壕を掘り始めたが、完成する前にそこを離れ逃げる事になった。

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.189に掲載)


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