【北朝鮮逃避行:1】(2017年1月)

今回から、第2次世界大戦の終戦を北朝鮮で迎えて日本に引き揚げてきた幼い頃の経験を、微かな記憶を頼りに今や高齢になった兄達からの助けを借りながらも書き留めた昔乙女の『北朝鮮避行』を連載します。

朝倉やさ子


昭和20年8月15日は天皇の玉音放送により日本が負け、戦争が終結したことを国民が知った日ですが、その2日前まで、私たち家族は、今の北朝鮮の清津(日本の読み方は「せいしん」朝鮮の発音はチョンジン、ちなみに北朝鮮に拉致された人たちが連れて行かれた所)にあった三菱鉱業(株)の社宅に父、母、祖母、兄二人、私、第の7人で住んでいました。
社員社宅は小高い山の上に段々に、一番上は二軒ほど、工場長や課長クラス、二段目は課長クラス、我が家は上から三段目にあり、一番下は寮生、降りて、もう一つ隣の山には、現地採用の日本人と朝鮮人用住宅、山と山の谷あいに娯楽施設や購買部、テニスコート、共同浴場などがあり、ここに防空壕もあり、社宅の殆どの人が入れる大きな空間でした。
社宅からは海は見えましたが、港というか海岸は見えていなかったようで、父が通う精錬所?は山を下りたところにあり、社員は三菱専用バスで通勤していました。同じ方向に一里先に小学校があり、兄たちは一里あるその学校に歩いて通っていました。
冬は零下20度~零下25度になり、家は6畳3間で1部屋にオンドル(最初はペチカでしたが、改装された)が入っていました。

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.188に掲載)


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