【北朝鮮逃避行:7】(2017年4月)

私が中学か高校のとき、父が笑いながら話していたことを思い出しました。この頃の話だと思うのですが、父は補助憲兵だった事。2人で組んで山(森の中?)に入って行ったとき、2人で相談したそうです。このまま、銃をもっていたらまずいのではないかと。そこで、山の中に銃を捨ててきたことを。もし、日本が勝っていたら、2人は銃殺刑だ、と。服部にいた伯母のところには、父は戦死の報告が行っていたらしい?父が部隊とどんな関係になっていたのかわかりません。
順川には、旭硝子の会社のほかに、100畳敷きの警察(保安隊といった)の演武場がありました。ある日、そこに、日本人は全部、集められました。旭硝子の寮にいた私たちも、そこに集められました。旭硝子の社員のほか、順川で生活していた日本人も集められました。祖母と母と三郎の3人と、父と2人の兄と私の4人は別々になりました。この後、「日本人は汽車に乗せない」と言われました。そこでは畳一畳に2人半あてで計算されて入れられました。ここで沢山の小さい子どもが亡くなりました。三郎もここで亡くなりました。9月25日が三郎の命日です。

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.194に掲載)


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