【北朝鮮逃避行:18】(2017年10月)

北朝鮮からの山道のあちこちに立っていて、北朝鮮側から来た人に声をかけ、確かめて、案内してくれていたのです。
北から南に入る山越えのときの事を、長兄は、「長かったわ。真っ暗でなあ。まだか、まだかと思ってなあ」という長兄の話しぶりに、それまでとは違う、なんとも言えない思いが詰まっているようで、苦労が感じられ、深い思いを感じ、今改めて、私の胸も詰まり涙が出ます。
そして、学校のグランドに案内されました。グランドには一杯にテントが張り巡らされていました。テントで一週間ほど、船一艘分の人数が集まるまで止められました。
人数が集まったのでしょう。38度線を越えてから、一週間ほど待ちました。
そこからは列車で釜山まで行き、釜山から貨物船に乗せてもらいました。
釜山から博多港まで1日か1日半で着くと長兄は言います。けれど、博多港に4~5日間止められました。船内でコレラが発生したのです。二週間後に検便があり、また、患者が出ると二週間延びる、これをくりかえし、4~5日間、博多港に止められました。船の中では、こうりゃんご飯でした。こうりゃんは本来は家畜のエサだと言うことです。あわのおかゆが出たときは、喜んでいたと言いますが、私には記憶にありません。パイナップルが一週間ごとに出ました。兵隊用の大きな缶詰だったそうです。

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.205に掲載)


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