【北朝鮮逃避行:3】(2017年2月)

8月13日、お盆の日の昼頃(お盆の入りやからといって、お盆の準備をしていたので間違いない、と長兄は言う)海のほうから、ぽんぽんと音がし出した。ところどころ、火の手が上がっていた。下に見える道路を人が沢山歩いている、道一杯になって、まるでアリの群れのように見えた。逃げているのがわかった。避難していることがわかった。ソ連兵が海から艦砲射撃をしていたのだった。「逃げなあかんのかなあ」で逃げた。長兄は、[一億玉砕]と言ってたので、逃げると言う事に違和感を持った。そのときは、社宅の丘の後ろ隣にある高い山に2、3日隠れていたら、また、社宅に帰るものと言い合っていた。(私が親から聞いた話は、防空壕に逃げたら、「もう家には帰らずにこのまま逃げてくれ」と言われ、何も持たずに逃げた、と。)山のふもとを歩く人達は道一杯になっていた。山を下り、山のふもとに沿った道、アリのように見えた人たちに合流し、みんなの流れに飲み込まれて歩いた。どっちを向いて歩いているのか、でも、それは線路に沿った道を歩いていた。
当時2年生だった次兄は、手を引いてくれる人がいなくって、すごく不安だったと言う。母は三郎を背負い、私の手を引いていた。皆について、歩いた。その、汽車は見えなかった。そのうち、駅かどうかわからないが、汽車が止まっていて人が沢山居るところに出た。社宅の人たちはばらばらに逃げてきたけれど、どうしようと、うろうろしているうちに社宅の人同士の集まりが自然に出来ていた。乗った貨車、車両にはなんとなく社宅関係の人が多かった。でも、汽車が止まったままで動かなかった。乗った汽車は、窓のない貨物車両で、汽車に乗った人同士で「どっちに逃げたら良いのやろう」と言い合っていた。単線なので、たまたま、来た列車に乗ったのだが、それが南に向かった。貨物車で、石炭車だった。

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.190に掲載)


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