【北朝鮮逃避行:19】(2017年11月)

貨物船は底と甲板の間に何段か床があったのでしょうか。私達家族は一番下ではなく、中程だったそうです。貨物船に荷物は何も載せないで、人間、すなわち私たちだけを乗せました。食事は1日2回でした。博多港に止められている間にハガキが配られ、帰国を知らせたい人に連絡が出来ました。
下船したとき、DDTを一杯まかれました。父の会社の福岡の人が3名面会に来て、「ごくろうさま」といって、「3ヶ月ゆっくり休んでください」と言ったそうです。父は「3ヶ月も休ませないよなあ」と言っていましたが、しっかり3か月休ませてくれました。
下船は11月2日でした。11月3日、暗くなって豊中の服部にある服部家(父の姉の家)に着きました。町は復興祭の提灯行列で賑わっていました。ぼろを着て満員電車の中で、周りの人は迷惑だったと思う、と長兄が思い出して言います。
伯母一家は、大歓迎をしてくれた。お蔭で、その翌日は6人はすごい下痢に襲われたそうです。伯母は母と長兄が伯父の工場で働けば良いと考えていたと言う言葉を長兄は聞いていると言います。伯母は、父は戦死したと思っていた時期があったのだろうかと、兄と話しました。

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.206に掲載)


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