【北朝鮮逃避行:8】(2017年5月)

あるとても暑い日の夕方、母が長兄に「三郎が泣くので、ちょっと、おんぶして涼しい所に連れて行ってやってよ」と頼みました。長兄は、おんぶして外へ出ました。翌日、午前中に母が「三郎の呼吸がおかしい」と言って騒ぎ出しました。三郎が死んだことで、兄は自分が三郎を連れ出したことが悪かったのではないかと思っているそうです。
焼き場に父が木の箱に入れた三郎の遺体を、長は新(まき)を背負って、4~5人一緒に行ってくれました。野っ原で、その新(まき)を交互に積んで・・・。それを専門にする朝鮮人がいて・・・。三郎の遺骨は持って帰りました。
私はこの時期、どうしていたのでしょうか?
次兄は、ここで初めて将棋を見、兵隊が将棋をするのを見て覚えました。
当然ながら衝立も無い中、清津から来た人は我が家も荷物は無いのですが、旭硝子や順川に住んでいた日本人たち(日本人は旭硝子の人だけではなく、関連のいろんな仕事の日本人が住んでいました)は荷物もあって大変だったのではないか?と思いめぐらします。
子どもが沢山死んだからか、演武場をソ連の上官が見に来て、「これは環境がひどすぎるな。これは改善しないといかん」と言うことで、順川にある旭硝子の社宅に移動することになりました。日本人たちは、そのソ連の上官に感謝しました。

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.195に掲載)


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