【北朝鮮逃避行:13】(2017年7月)

それは、おばあさんが散歩中に天日干ししている所を見て、「これなあに?」って聞かれてので、「逃げるときの食料を作っているんです」と答えたら、そのおばあさんが日本人会に駆け込み、それで日本人会が知ることになったのです。清津組は、小学生以上は皆が働きました。父親は勿論、母親も若い娘も働きました。働かないと食べていけませんでした。旭硝子の人は持っているものを処分してお金に変えて生活していました。清津組は大きな釜を世話してもらって大きな釜で1人2合か、それで足りなければ2合ちょっとを炊いて、それを分け合って食べました。ご飯を炊くのは3人いたおばあさんの仕事でした。
母達女性は若い女性も、朝鮮人の畑の手伝い、農業試験場での草取り、布団の綿打ち、子守りなど、みんな手伝いに行ってお金をもらい、共同出資しました。2割を自分の物にし、それ以外は供出していたと兄は思っています。長兄自身も、母と一緒に、朝鮮人の家に、子守りに行ったり、綿打ちの家や、金持ちの中国人のところにも行きました。「昼食付で10円ももらった」と沢山もらったように話します。そのほか、配給してもらっていたトウモロコシを食べられない人から、粉にするアルバイトもしました。

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.200に掲載)


※北朝鮮逃避行のバックナンバーはこちらをご覧ください。