【北朝鮮逃避行:10】(2017年6月)

うちの家族は一番上の家に入ったのですが、その3畳、4畳半、6畳、6畳の家に5家族が入りました。長屋になっていた隣には清津から来た家族ばかりではなく、順川にいた2家族も入りました。旭硝子の人や順川に暮らしていた日本人は、持っているものを売りながら生活していましたが、清津組みは何にも持っていなかったので、働きに行かないと暮らしていけませんでした。
日本人会から多少は援助してもらっていました。旭硝子の社宅に移ってからはトウモロコシの配給が、ちゃんとありました。日本人の父親たちは旭硝子の工場の三交代要員となって働きました。会社の幹部には朝鮮人がなりました。
長兄は自分が成人して会社人間になったとき、このときのことを思うと、「よく会社経営が出来たなあと不思議に思う」と言います。この時、会社経営をしたのはソ連ではなく朝鮮だと、長兄はいいます。ソ連は朝鮮で製品を作るのではなく、朝鮮にある設備を貨車でソ連に運んでいたのでしょう。設備を積んだ貨車が毎日走っていました。北朝鮮のめぼしい工場から設備を選びだしていました。子供心に「ソ連って貧乏な国なんだなあ」と思い、「皆持って行きよるわ」、「旭硝子は稼動しているので持っていかれないのだな」と子供心に思って見ていました。

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.197に掲載)


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