【北朝鮮逃避行:4】(2017年3月)

13日のまだ明るい夕方に乗ったのですが、走りません。2つか3つか先の駅、羅南で止まったまま、翌日の午後になっても、動きません。ぎゅうぎゅう詰めの背車の中で、じっとしていました。昼頃、この羅南の駅で「在郷軍人は全員降りろ」という放送がありました。この羅南には、陸軍の訓練所があり、1年間ほど、父は訓練所に行っていたことがあり、長兄、次兄は母と、ここに父に面会に行ったところでもありました。日本人がない中、兵隊確保目的で在郷軍人という組織を作ったのではないだろうかと、長兄は言います。
父は、清津で、社宅の山を下り、人の流れに合流したとき、ものすごく悩みました。この時期、父には青紙が来ていました。赤紙ではないのですが、「このまま逃げてはいけないのではないか」とものすごく悩みながら、相談する人もいなかったので、そのままみんなと行動を共にしていたのですが、父はここ羅南で貨車を下りました。自分の行き場所がはっきりして、吹っ切れたのではないでしょうか。しばらくして戻ってきました。手には人参を数本下げていて、「これでも食べろ」と言っておいていきました。家を出てから、誰も、何にも口にしていませんでした。在郷軍人で数人下りましたが、それをしたのは父だけでした。父以外の数人は訓練所の食堂で、食事をして、集合場所に行ったものと思われます。父は家族の事が心配だったので、その先の畑で人参を分けてもらって、家族に届けたのでしょう。でも、生の人参にしろ、持って届けてくれたのは、その車両で5~6人降りた人の中で父だけだったそうです。
汽車は相変わらず動きませんでした。

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.191に掲載)


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