【まちなかの散歩:137】歴史から学ぶことの意義(2020年1月)
~松浦さんの死を悼む~
あけましておめでとうございます。2020年、令和2年の年明けです。暮れのコラムにも書きましたが、昨年は改元と災害で明け暮れた一年でした。(スポーツ、スクリーン、政策のミスを逸らせるミス議員連等もマスコミは競って取り上げ注目されましたが、それらはさておき)
そんな2019年の師走を前に、昨今のさびれつつある住宅地の状況そっくりに、ひっそりとなった豊中駅前地区で唯一・最大のビッグイベント「七夕まつり」の創始者・松浦幸夫氏が90歳の人生を終えられた。本町1丁目生まれの生粋の豊中人。職人気質の煎餅屋の気概と一番街商店街(刀根山通り)の理事長としての責任感から「お客様に恩返し」を期して取り組まれた七夕まつりのことは、これまでにも本コラム(最新では2018年7月号Vol.218)や「まちづくり掲示板」でも取り上げてきている。一昨年の七夕まつりの開会式で、銀座通りも含めた現七夕まつりに拡大して開催にこぎつけた富士カメラの西村碩氏とともに辻本龍男実行委員長から感謝状が渡され、多くの参加者からの拍手が沸き上がったことが目に浮かぶ。その西村氏も既に隠居されて銀座通りの店頭で見ることは出来なくなった。一時代をつくった功労者が消えていき、古老から学ぶ機会が失われつつある。
中国には『水を飲むときには井戸を掘った人の恩を忘れない』という諺があるという。(「喝水不忘掘井人」)かつて日中国交正常化のため、田中角栄首相が中国を訪問する直前、周恩来が岡崎嘉平太を食事会に招き「まもなく田中首相は中国に来られ国交は正常化します。しかし、その井戸を掘ったのは岡崎さん、あなたです」と語った言葉でもある。
別府の奥座敷とは名ばかりのまちを数々のアイディアを繰り出して盛り上げ、湯布院のまちづくりの祖と言われた中谷氏も今や“健太郎を知らず湯布院のまち浮かれ”となっている。アフガンの地で環境改善こそが戦争を防ぐ近道と全力を捧げながら凶弾に倒れた中村医師の残念な死をも思う。
目下、豊中市主導で「豊中駅周辺整備構想」が提起され、「豊中駅前交通量調査」が昨夏に実施されたと聞く。箕面街道と豊高道とのスクランブル交差点、銀座通りと刀根山道との交差点、国道176号と大池小学校前道との交差点、刀根山道からホテルアイボリー前を経て国道176号との交差点など、幹線道路での交差点問題は多いが、「数量」調査ではどうやら交通量が減ってきて問題が減りつつあり”現状でも将来的にも問題なし”で万々歳と行政も仕事をしなくて済ますのか。
住民の高齢化、自転車マナーの悪さ、見通しの悪さ、歩道の未整備、安全・安心・まちの緑化等の環境という交通量問題の数だけでない市民の日常的実感、地域全体を考慮した整備構想が地権者だけでなく来街者・利用者が加わる議論がなされて計画が立てられるのか不安がある。昔三鷹市は総合計画に多くの市民の声を聴いたと行政は胸を張ったが、その多くはインターネットでの意見聴取であったという。来街者・ネット難民に耳を傾けない意見聴取は見せかけの実態調査である。まちの将来に意見も言わない「劇場民主主義」の現状は刹那的であり将来を憂えざるを得ない。かつて住民・行政・事業者が揃って取り組んだ「交通社会実験」から学ばないで「歩行者天国」を目指しているようでは住民は行政に体をかわされる。現代的課題も発見できず解決には到底辿り着けない。かつて豊中駅前住民が描いた『まちづくり構想』は”酸っぱいぶどう”だったと諦めるしかないだろう。
(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.236に掲載)
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