【豊中駅前の歴史:34】七夕まつりについて(2012年4月)
【豊中駅前の歴史:34】七夕まつりについて(2012年4月)
このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。
今回は、これまで31回、開催されてきた「七夕まつり」について、振り返ってみたいと思います。「七夕まつり」については、本紙の中旬号に掲載する『まちづくり掲示板』に繰り返し取り上げてきております。
七夕まつりは、豊中駅前が年に一度、数時間であっても車から解放され、「歩行者天国」としてゆっくりと遊べる一大イベントです。地域の多くの方々に愛されて、これまで一度も途切れることなく続いてきていますが、その陰には駅前商業者による並々ならぬ下支えがあり、“地域の方へのご恩返し”という気持ちに裏付けされた取り組みへの時間・金・エネルギーの結晶なのです。
これまで31回を数えている「豊中駅前七夕まつり」は、昭和54(1979)年の一番街商店街の取り組みから始まります。当時のりーダー・松浦幸夫氏の「歩行者天国にしよう!日頃お世話になっているお客さん、特に子どもさんに喜んでもらおう」という呼びかけに応じて、商店街の道路(刀根山道)を中央からバリケード(車のタイヤ)で分け、東側を歩行者専用としました。道の両側の商店には“笹飾り”、各店舗前では現在に引き継がれている“金魚すくい”や“ヨーヨー釣り”が用意されました。
都市部での祭りの開催ということで、大好評により、翌年からは“バス通り”の銀座商店街、新開地市場、阪急市場が加わり「駅前商業4団体」が主催者となりました。とはいえ、当時では前例のない大規模な「歩行者天国」を通行量の多い駅前の商業地でやろうというのですから、関係機関の多さとその趣旨・意義に理解と協力を得るのが大変でした。
豊中市には「道路使用の許可」を、阪急バスには「バス停の移動とそのPR」で、高槻の建設省国道事務所には移設されたバス停での乗り降りのために「安全柵の切断許可」を、消防には「消火栓をふさぐ」ことへの理解を、また警察には「道理使用の許可」と「交通整理」の理解を得て、テキヤを入れずに地元の商業者が出店し、まつり実施区域内の警備も含めて地元が責任を持つという約束をして、今日の形態になりました。
消防音楽隊の“パレード”、メイン会場での“芸能人のショー”や“のど自慢大会”、“織姫コンテスト”、“ちびっ子スイカ割り大会”、野村証券・大和証券・山一證券の協力による“古本市”、阪急電鉄、関西電力、大阪ガスなどの公共サービス企業の出店、・・・盛り沢山のイベントで溢れていました。
まつりの趣旨を間違えて集まる暴徒の行動を防ぐため、夕方からの開催が夏の暑い盛りの昼間に変えられたのは極めて残念という声を聞きますが、かつては沢山の集まった人々の警備に困ることもありました。七夕まつり開催時には、大学の研究者・学生らの協力も得て、歩行者天国による交通影響度も調査・研究されていました。
その後も地域の諸団体や企業の協力・協賛も続いてきましたが、商業者・住民が始め、中心となって支えた「七夕まつり」だったのです。
※豊中駅前の歴史を振り返るのバックナンバーはこちらをご覧ください。