【まちなかの散歩:94】七夕まつりについての3つの誤解(2016年6月)

 なかなか収まらない熊本・大分の地震に21年前のあの恐怖を思い出し、当地の友人・知人に心遣り、早い収拾を祈る今日この頃である。東北の友人も「阪神淡路大震災では、まさか自分たちの身に同じことが起きるとは思いもしなかった」と言う。九州の友人も同じ思いだろうか?他者の立ち位置を想像して他者に配慮することの難しさを痛感する。それでも今年も豊中駅前に七夕まつりの季節がやって来た。35年間継続されてきたが、今年も開催をめぐって、担い手不足・資金不足の中で四苦八苦していると耳にして、この七夕まつりについての私が耳にしてきた“3つの誤解”を書いてみたい。

①七夕まつりは、商売人が金儲けでやっていること。
「まちづくりニュース」で繰り返し伝えているが、そもそも豊中駅前の七夕まつりは、一番街商店街(当時は“刀根山通り”の方が通り易い呼び名だった)の商業者が、当時の商店街会長だった松浦幸夫氏をリーダーとして、“日頃のお客さんへのお礼”の意味を込めて始めたものだ。決して、これで金儲けをしようという考えはなかったと聞いている。従って、その後も、その日(夜)だけ出店して儲けるという露店はなかった。それは、会場である市道を交通止めにして歩行者天国にする趣旨からして警察への約束事としていわゆる“テキヤ”の排除があったことからも分かる。いわんや「店の前の道路は自分のものである。店前の道を勝手につかうな。」などとは言ってきてはいない。当然だが・・・。

②どこからか、開催費用を出して貰っている。
 かつては、豊中市から商業振興策の一環として当時の4つの小売市場・商店街の夫々に出ていた補助金を資金の一部としていて、そのお礼の意味で市長を来賓で呼んでいたが、今や、市役所だけでなく、商店街からも資金援助はなくなっている。数少ない企業や商店街の一部の心ある店舗からの協賛金等を基に運営をしているのが現状である。

③いつまでも続く。
「幼い頃の思い出」として懐かしむ声を多く聞く。近頃珍しくなった歩行者天国でのそぞろ歩きとささやかな遊び。だが、懐かしんでばかりはいられない。この欄で提案してきている資金カンパや寄付の協力、人的支援がなければ、ただ“祭りがあるから集まってくる”という“ぶら下がり”の姿勢でしかなく、これでは開催はむずかしくなる。支える姿勢を形にしていくこと。熊本・大分の地震で石橋にヒビが入ったと伝わる通潤橋がどうしてできたか。水路橋の建設は、農業用水がなく貧しい隣村の娘の身売りをなくすためだった。七夕まつりの立ち上げの主要メンバーであり、今もじっと守り続ける銀座商店街の富士カメラの西村氏は、「今、やめてしまったら2度とは出来んぞ!」と危機を敏感に感じて、はっぱをかけているらしい。今年が正念場である。自分の利益のみの追求から方向転換して、自分が得することで他の人が犠牲になっているのではないか? という想像力があるかどうかが問われる。商業者も、この七夕まつりを邪魔扱いにせず、上手に活用すれば、「100円商店街」や、「バル」の趣旨がもっと活かせるのではないだろうか?

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.175に掲載)


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