【まちなかの散歩:130】熟議民主主義(2019年6月)
「改元」を口実にしてメディアの「真相報道」の機会を更に乗っ取られ、史上空前という長い連休明けで疲れ切った5月をやり過ごして6月を迎えている。すっかり忘れられた感がある昨年の災害は6月から始まっている。「令和初めての○○」の連呼も鼻についてきて、そろそろ「ええわ」と「平静」になり改元によって社会が具体的にどのような変化があったのか、見つめ直してみたいものである。
色々とある中で地域政治を見てみたい。騒動の最中の4月21日は、豊中市議会議員選挙があったが投票率41.45%で前回よりも0.14%低かったとか。その「選挙公報」を見ると、候補者数45名中15名が市長の推薦を受けている。それでも落選した候補者もあったのだが市長の推薦の効果がなかったのだろうか、あるいは市長に見る目がなかったのか、市民と市長との意識の乖離が見られたのなら、そのような市長に市政を任せるのは不安である。元鳥取県知事の片山善博慶応大学教授が、議会と首長との緊張関係を重視して議員の「行政活動監視機能」の重要性を主張しているが、このケースではどう見るべきか。議会の本来の役割には、「政策形成」と「行政統制」があり、それらは首長との「討議」、議員間での「討議」、住民との「討議」が不可欠である。
また、議員定数を減らすという声も聞くが、ますます多様化する住民の多様な意見を反映するために多くの議員を必要としてきたのであるが、経費を減らすと言うだけで議員定数を減らすとなると、民意を反映させる機会はいつあるのだろうか。市長推薦の議員への陳情しかないのか。議会人自らが、「自分たちは市民の意見とは乖離している」から役に立たないことを自白しているのだろうか?
ましてや大阪市隣接の市の議会を減らすという構想も再浮上し現実味を帯びてきた。久しぶりに「東京に下る」と、旧友たちが「何故、戦争中の緊急時に発足した“議会をなくした大東京”の二の舞を踏むのか」と不思議がる。「それほどまでに急ぐ課題が大阪にあるのかい?」とも。東日本の復興計画に地元の意見が通らずに、県庁・市役所の立地する「中央」中心の「広域的見地からの計画」が進められたと嘆いていた被災地の映像を見たことがある。
これまで、明治・昭和・平成の合併を重ねてきての東京一極集中による「1票の格差」の是正をするとはいうが、人口割で国会議員を選ぶと人口集中地区の大都市(とりわけ東京都)の政治家が増えて、過疎地の政策がなおざりになることは明らかである。地方創生とは偽りのスローガンなのか?昔、遠眼鏡で天守閣から領民の暮らしを見て政策を立てた為政者の発想と同じことになりかねない。いや、「平等」という「正義」を振りかざすだけにもっと“たち”が悪い。地方分権・地域主権の考え方の声が聞こえなくなって久しい。あるのは、「地方」鉄道の旅での地域性に無頓着な食べ比べ番組程度だろうか。
過日の「豊中まちづくりフォーラム」に登壇された加茂利男大阪市大(政治学)名誉教授が、その補論の中で国・地域における「熟議民主主義」の重要性を強調されている。市民・住民の意見が行政にどう反映されるかは重要なテーマであり、身近な出来ることからの行動(家庭内民主主義も含めて)それと共に、かつて学校のホームルームで訓練された「熟議」する機会、「討議」する機会を粘り強く積み重ねていかねばならないだろう。それにつけても、市民からの提案を「そんなことをしたら、“(チコちゃんならぬ)大阪府に叱られる”」と平然と言い放つ旧態依然とした思考法を持つ担当課長のいることを市長も議員諸氏も知っているのだろうか?市民の英知を政策に反映させる仕組みと、それを市民のために運用する人材登用を真剣に考えてもらいたいものである。
(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.229に掲載)
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