【豊中駅前の歴史:28】戦時中の豊中駅前(2011年8月)
このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。
今回は長年豊中駅前の商業団体の活動を支え、また市内各所で戦争を語り継ぐ活動をされている松浦幸夫さんにお話を伺いしました。
——2009年の3月にこのシリーズが始まりましたが、その第1回・第2回にお話を伺ったのが松浦さんでした。新開地ビルを中心に戦前から戦後にかけて駅前の変遷を語って頂きました。今回は、特に戦時中の駅前について、お伺いします。
【松浦氏】豊中駅前は「昭和」という年代と共に育ってきたのだなあと思う事があります。昭和の始めに駅ができから徐々に駅の周辺や当時産業道路と呼ばれていた国道176号沿い、十間道路(現豊高道)に繋がる銀座通りにお店ができていきました。戦時中には阪急市場だけでなく、国道と線路(今は高架になっていますが)との間にも市場や商店がぎっしりと軒を並べていました。南は能勢街道の入り口(関西アーバン銀行前)から北はバスターミナルまでの間ですね。
——ひょっとして、今よりお店が多かったのでは
【松浦氏】そうかも知れませんね。当時では阪急沿線では大変珍しい、東西の改札を繋ぐ地下道がありました。大方の駅は構内の踏み切りで乗り換えていたものです。また、貨物列車専用の引込み線がありました。その線路の前には獣医さんと風呂桶屋さんがありました。今の田辺の散髪屋さんがある辺りになるのでしょうね。その横にバス乗り場、その隣に駅舎が並んでいました。駅の改札から北側へ線路と産業道路との幅の狭い間に、仕出し屋、貸本屋、関東煮屋、寿司屋などのお店が踏み切り(現近畿大阪銀行のある交差点付近)まで並んでいました。
——そんな賑やかな駅前が空襲に遭うのですね
【松浦氏】爆撃を受けたのは、周辺の本町2丁目・3丁目、千里園、玉井町の一部、岡上の町4丁目の郵便局付近などで、駅前は免れました。しかし、強制疎開で、線路沿い一帯のお店は取り潰され、その多くは国道の東側などに移転されました。
——空襲の悲惨なお話はこのシリーズのNO5・NO6「刀根山道の今・昔~戦争の時代を振り返る~」で辻本さんからお聞きしました。
【松浦氏】終戦後の2、3年の間は、物資が大変不足し、食べるものも着る物も事欠きました。配給制が敷かれ、何もかもが切符が無ければ買えませんでした。その切符でうどん屋さんで海草で作ったうどんを食べた事を今でも憶えています。緑色をしてなにやら怪しげなものでしたが、それでも美味しく感じました。いつも空腹を抱えていましたから。そんな頃には豊中駅前にも闇市がありました。銀座通りの一角にあったと思います。
——今日は有り難うございました。これからも戦時中や戦後間もない頃の大変な時代を語り継いで行ってください。宜しくお願いします。
(松浦幸夫氏プロフィール:昭和4年生まれ 一番街商店街相談役 豊中駅前七夕まつりを始めた一人)
※豊中駅前の歴史を振り返るのバックナンバーはこちらをご覧ください。