【豊中駅前の歴史:38】池の変遷(2012年9月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。

豊中駅前など中心部が位置する豊中台地はその昔、「新免、轟木(本町一帯)月夜にやける」といわれるほど、水が乏しく溜池が多かった。(鹿島友治氏)その池が今では公園や学校になっているお話は村中さん(第4回)、大酒さん(第17回)、中井さん(第24回)などから伺っています。今回は、「鹿島友治氏編 ふるさとの思い出 写真集(国書刊行会)」より、その池の昔の姿をいくつか紹介します。

1)「大池」現大池小学校
「昭和初年大池の東岸、池にのぞんで住宅が建ち始め、北岸には水面に床を張り出した風流な住宅が出来た。西岸は堤防で、堤上を古箕面街道が通っていた。風流な家の裏に中学校道(現豊高道)が開かれていた。商店はまだ駅付近に少々あるだけで、住宅も疎らであった。水面に床を張り出した家では、床に穴を開けて釣り糸をたれ、魚釣りをしたと伝えられている。」

2)「大門池」現大門公園
「住宅開発が進み、不用となった池は埋め立てられて公園や学校用地に変わっていった。写真のようにボートの浮かぶ頃は埋め立ての時期が近づいていたしるしである。対岸には早くも池にのぞんで住宅が建っているが、やがてその環境は大きく変わる。」

3)「堀田池」現堀田公園
「上野地区の住宅開発はまことに遅々としていた。区画が整然と出来ているだけで、あたりは一面すすき原とまま放置されていた。昭和10年頃の航空写真でも、まだこの程度であった。右手前は堀田池で、中学校(現豊中高校)横の二階建は同仁病院であったが、今はない。堀田池は埋め立てられ、府道曽根箕面線が通り公園になっている。」

4)「豊中台地」
「昭和10年、刀根山丘陵南端から千里川の流れる低地をへだてて豊中台地を見たものである。右方の道路は府道大阪池田線(現国道176号線)で、これに平行して阪急宝塚線が走っている。右上方は豊中グランド跡地と周辺に開けた豊中住宅、中央は同じく阪急経営の北屋敷住宅(大正8年売出し)である。前面の低地に出来た千里園住宅(昭和7年より)はまだ九〇戸ばかりであった。」


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