【豊中駅前の歴史:6】刀根山道の今・昔(4)戦争の時代を振り返る(2009年8月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、 これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました
今号は引き続き、辻本龍男さんが、8月15日の終戦記念日に因んで、昨年8月15日に開催された “アイボリーフォーラム「戦中・戦後を後世に伝える集い」”の中で語られたお話の後半をお伝えします。

戦況が悪化して、航續距離の長いB29爆撃機が硫黄島の基地から、日本の本土を爆撃して、無着陸で基地に戻れる様になると、 東京大空襲、大阪大空襲で一般市民が大勢、家を奪われ無差別に殺されました。
飛行場があったからか、飛行機を千里川沿いに隠している、と言う情報があったからか、豊中も空襲の目標にされました。
先ず、千里川沿いに、1屯爆弾の雨が降りました。雲は低く垂れ込め、B29の爆音が辺りを押し潰す様に唸ります。
当時我が家は父が招集され、姉は学徒動員で、毎日大阪市内の軍需工場へ勤労奉仕に駆り出されていました。家に居たのは母と 国民学校6年の私、それに数え4歳の妹と2歳の弟の4人だけでした。警報が出たので、防空壕に入って居たのですが、ドドーンと 下腹に響く爆発音、家は地震の様にガタガタ振動し今にも倒れそうでした。防空壕はミシミシと軋み壊れそうでした。母が、 「逃げよう!」と言うので、防空壕を逃げ出し、母が2歳の弟を背負い、私が4歳の妹の手を引いて、刀根山道を千里川迄逃げました。
私が、橋を渡ってすぐの左側の原っぱに大勢の人が居たので、そちら側に行こうとすると、母が「そこは、飛行場に近いから、 もっと、川上の方へ行こう」と言いました。300m程川上の誰も居ない堤防の陰に身を潜めました。
後で、判ったのですが、川下から私が逃げ込もうとした原っぱまで、爆弾が落とされ、原っぱでも何人もの死者が出たそうです。 後で聞いた話ですが、私の同級生の一人もそこで、爆弾が吹き上げた土を被り、下半身生き埋め状態になりました。彼のお母さんは 彼を助けようと、手で土を掻き退けて居た時、すぐ近くに落ちた別の爆弾の爆風で吹き飛ばされ、即死でした。松の木に引っ掛かって 居たそうです。又、私達が隠れて居た所から20m程離れた家の2階で、防空壕には行かないと言って、寝床に居た病気のお年寄りが、 300m位も離れた所から飛んで来た爆弾の破片の直撃を受けて亡くなって居たそうです。
次の豊中空襲は焼夷弾でした。1屯爆弾を落としたのと同じ範囲を焼き討ちしたようです。私たちは千里川沿いは危ないので、 稲荷神社の方へ逃げました。光源寺の前を通る頃は昼下がりなのに、空一面が真っ黒い煙に覆われ、夕方と言うよりは夜のように暗かった事を 今でもはっきりと覚えています。
でもそれからどの様に逃げ、どの様に家に帰ったかは全く思い出せないのです。
何日か経って、私の家が道路拡張のために強制疎開で、取り壊されることになりました。その取り壊し中に、何人かが屋根に上がり瓦を 降ろしていた時に、東の方へ日本軍の飛燕が編隊を組んで飛んで行くなあと思っていた、次の瞬間、先頭の1機が左に旋回し急降下、 バリバリバリ・・・と機銃掃射されました。実は米軍のP-51だったのです。屋根にいたおじさんたちは転げ落ちました。警報解除が出て、 慌てて逃げ込んだ防空壕から出てみると、辺りには薬莢が沢山落ちていました。
そして8月15日の終戦を迎えました。軍の言っていた本土決戦などが行われていれば、犠牲者は計り知れないものになっていたでしょうね。


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