【豊中駅前の歴史:75】豊中駅前「都そば」前(2016年3月)

今回は昭和40年に撮られた「都そば」前の写真をもとに豊中駅前の歴史に詳しい、一番街商店街・元会長の松浦さんからお話を伺いました。

——車を止めて選挙演説をしているようですが、今では考えられませんね。
松浦氏:昭和40年頃は自家用車を持つ人も少なく、今のように車を気遣って商店街を歩くような事は無かった時代ですね。バスは銀座通りを走っていましたが、悠長なものでした。
——写真の右の日よけに「新開地市場」とありますね。
松浦氏:新開地市場については、このシリーズの第1・2回を読んで頂けるといいのですが、銀座通りには電化製品、薬局、化粧品、衣料、惣菜までいろいろなお店があり、戦前からの阪急市場もありました。駅前には日々の暮らしに必要なものが揃っていました。買い物籠を片手に割烹着姿のお客さんが多かったですね。
——駅前が大きく変わるのは、いつ頃でしょうか。
松浦氏:ホテルアイボリーが建ち、新開地がビルになり、歩道橋と人工広場が完成する昭和42年から45年頃ですね。人工広場の下にバスターミナルができ、東豊中や旭ヶ丘などからのバスの便数が増え、駅前を走るバスは増えました。また時代は車社会と変わっていきます。それに併せて、銀座通りを一方通行にしたり、スクランブル交差点になったり、「都そば」の前に横断歩道を引いたりと、駅前はどんどん変わっていきます。下の昭和48年の写真をみると良く判りますね。
——活気もありましたよね。
松浦氏:豊中駅前は時代を先取りする気風があったと思います。当時、宝塚沿線で駅前にホテル(ホテルアイボリー)があるまちは無かったと思います。市場の店主が会社(新開地ビル開発)を作って、衣料スーパーと食品スーパーをテナントにして商業ビル(新開地ビル)を経営していると全国から視察があったと聞いています。洋菓子屋さんも沢山ありましたよ。コバルト、マロン、フランセ、神戸ベル、ユーハイム、ナガサキヤ、エーデルワイス、ハイデコンデトライ、コトブキヤ、まだあったと思います。
——写真の正面上には大きな看板がありますね。
松浦氏:上にある「丸本靴履物店」は現在マルモトビルになっています。「豊中文化料理教室」、「豊中文化服装学院」、「モータープールフタバ」はアイボリーさんがされていました。「ブルドッグ」は新開地市場と北側の路地にありましたが、本店は一番街にあり、終戦間もない頃から本格的な珈琲を飲ませる喫茶店として、まちでは有名なお店でした。駅前も今は大きく様変わりしましたが、昔のようにゆっくりと歩けるまちになって欲しいですね。そうすればまたまちに活気が戻って来ると思います。
——今日はありがとうございました。

プロフィール/松浦幸夫氏 本町1丁目在住 昭和4年生まれ / 豊中駅前まちづくり会社顧問 元一番街商店街会長


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