【豊中駅前の歴史:5】刀根山道の今・昔(3)戦争の時代を振り返る(2009年7月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。
この間2回に亘り、戦前の刀根山道のお話を掲載してきましたが、今号と次号は8月15日の終戦記念日に因んで、太平洋戦争の時代を振り返ります。
以下、本町3丁目自治会長で豊中駅前まちづくり推進協議会の会長でもある辻本龍男さんが、昨年8月15日に開催された“アイボリーフォーラム「戦中・戦後を後世に伝える集い」”の中で語られたお話を2回に分け、お伝えします。

思いつくままに、戦争の記憶など、綴ってみたいと思います。
昭和8年12月26日に誕生、昭和15年4月に、今の大池小学校である豊中市立克明第三尋常小学校(第一は、現克明。第二は、現桜塚)に入学しました。
翌16年12月8日の朝、授業の始まる前に、全員廊下に整列する様にと指示がありました。廊下に並ぶと、校内放送のスピーカーから、「朕は、ここに、米国、英国に対し、宣戦を布告す。汝、臣民は、・・・」と天皇陛下の詔勅が流れ、続けて、「大本営発表! 我が帝国陸海軍は、東太平洋に於いて、米国海軍と、戦闘状態に入れり。・・・」と、言うことで、大東亜戦争(太平洋戦争)が、勃発したと知らされました。
それから1年半程の間は、「勝った、勝った」の戦勝ムードに包まれていました。やがて、戦況が悪化していきます。(国民には知らされてはいませんでしたが)、学校の若い男の先生も招集されました。私が4年生の時の担任の宮森先生も、出兵されました。運よく復員されましたが、戦場でアメリカ軍の空爆を受け、油脂焼夷弾の油を半身に被った為、夏には、右と左の日焼け具合が違うようになってしまわれた。と聞きました。
戦争が始まると、尋常小学校は、国民学校と呼び名がかわり、我が克明第三尋常小学校は大池国民学校と改名されました。
未だ国内が平穏だった時に、お昼前突然警戒警報が発令されました。児童は、全員校庭に集合し集団で下校しました。その警報がそのまま翌日も解除されず、自宅待機になりました。その時は遊ばせてもらったような気がしたものです。しかしそんな呑気な時期はそう長くは続きませんでした。
その頃から、防空頭巾や、竹の先に縄を何本も括り付けた火叩きを各家庭で用意するようになりました。街角には防火水槽が置かれ、各家の庭や岡の麓に穴を掘って、防空壕が作られました。防空壕と言っても、今時のシェルターなんかとは大違いで、掘った穴に木枠をはめて蓋をしただけの、粗末な物でした。こんな防空壕でしたので、その中で機銃掃射の弾に当り即死した人や、1屯爆弾の衝撃で生き埋めになって亡くなった人も多かったです。現に私達の隣組の外れに落ちた1屯爆弾で、1家4人が自宅の壕の中で生き埋めになって、亡くなっているのを見ました。また、隣組の一番端の家は同級生の家でしたが、彼の家は前記1屯爆弾で、防空壕にかぶさる様に倒壊しましたが、運良く一家がお隣の防空壕に入れて貰って居たので無事だったそうです。(次回へ)


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