【豊中駅前の歴史:50】稲荷神社の秋祭り(2013年10月)

今回は一番街の松浦幸夫さんに「稲荷神社の秋祭り」について、お話を伺いしました。

——毎年10月には秋祭りが盛大に行われますが。いつ頃から始まったのですか。
松浦氏:大正10年頃だと聞いています。私が看景寺にあった幼稚園に通っていた頃、今から80年ほど前になるのですが、その頃に「太鼓」や「だんじり」を見た記憶があります。
——100年近くも続いているのですね。
松浦氏:実は何回か中断しています。中国との戦争が激化する昭和12年頃から第2次世界大戦が終わるまでは、お祭りはなかったと思います。唯一「皇紀2600年」(昭和15年)を記念して、その年だけ「太鼓」や「だんじり」が出たことは良く覚えています。戦後になり、昭和20年代に本町1丁目で「子供神輿」をつくりました。その頃の写真だと思いますが、「子供神輿」の前で鉢巻と半被で着飾った子供たちと世話人さんが写っています。それを記念して秋祭りが再開され、「太鼓」や「だんじり」が久々にまちを練り歩きましたが、数年後に再び中断され、昭和30年頃から40年代までは断続的に開催されていました。漸く昭和51年からは毎年開催されるようになり、平成25年の今年まで続いています。平成7年の阪神淡路大震災の年だけは自粛しましたが。
——秋祭りは毎年10月の半ばの土・日に開催されていますが、その日は威勢の良い掛け声と共にお神輿や太鼓、だんじりの鐘や太鼓の音で駅前が賑やかになり、2日目はそれぞれが稲荷神社に入っていきますね。
松浦氏:それを「宮入り」と言います。本町地区(昔の新免村)の「新免(しんめん)の太鼓」、駅前の商店街などを中心とする「本町一丁目の大太鼓」、能勢街道周辺の「岡上の町のだんじり」、「子供神輿」を受け継いだ「女性神輿」などが順次お参りし、お祓いを受けます。その時が秋祭りのクライマックスです。「差し手」と呼び、担ぎ手が両手で太鼓を押し上げたまま、境内の中をぐるっと回るパフォーマンスで一気に盛り上がります。宝山町の布団太鼓も以前は宮入りしていましたが、最近は見かけませんね
——代々地域の方々が守り通してきた長い歴史を持つ秋祭りですが、松浦さんも長い間お祭りのお世話をされて来られ方々のおひとりですね。
松浦氏:「本町一丁目の大太鼓」のお世話は父の時代から続いています。本格的に復活した昭和51年にはそれぞれの「太鼓」に台車を付けて、押したり引いたりしながら移動するようにしました。一日中担ぐのは大変ですからね。その頃は担ぎ手もたくさんいましたが、最近は少なくなり一寸さびしい気がしています。でも駅前から離れたところからお祭り大好きな助っ人が数年前から参加してくれるようになりました。もっとたくさんの人に参加してもらってみんなのお祭りにしたいと思っています。
——「本町一丁目の大太鼓」はどの辺りを回るのですか。
松浦氏:大池小学校横の本町1丁目自治会館前から出発して、梅花学園、本町8丁目・9丁目から千里川まで、一番街から西口、能勢街道沿いから176号・豊中温泉・大池小学校辺りまでが大方のエリアですね。
——その辺りは戦前からたくさんのお店が並んでいたところですね。勝手な推測ですが、大正2年に豊中駅ができ、住宅地の発展と共に駅前が商業地として確立されていく中で、当時の商業者が中心となって「豊新の太鼓」をつくり、稲荷神社の秋祭りに加わったのでは、と考えてみたくなりました。今日は有難うございました。

※プロフィール:松浦幸夫氏/昭和4年生まれ 本町1丁目在住 一番街商店街相談役


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