【まちなかの散歩:22】挨拶(2010年6月)

 毎年のことではあるが、箕面の山の新緑が増す頃には、“目には青葉 山ホトトギス 初ガツオ”という俳句を思い出す。今から300年も前の江戸時代に生きた山口素堂の作らしいが、“青葉”、“山ホトトギス”、“初ガツオ”と3つも季語が入っている珍しい句だと、今、俳句に凝っている友人に薀蓄を聞かされ、なるほどと思った。
 今なお、迷走を続ける今日の政治状況であるが、現政権に期待された幾つかの公約の中で外交問題がある。期待されたアジア外交には遠く及ばず、普天間の基地問題で沖縄・徳之島という現時点での「地元」、米国、連立を組む内閣の各政党、どこからどの順序で仁義を切るのかという挨拶の仕方が、ことの本質と違った形で論じられているようである。

 この欄で何度も取り上げている『挨拶』のこと。禅宗の修行僧が、その識見を探り合う行いをさす用語であった「挨拶」も大別すると、言葉による挨拶と身体を使っての挨拶、さらにはcmにもあるように中元・歳暮に代表されるような物を贈るという行為もこれにあたろう。身体を使うのは、手を挙げる、手を合わせる、お辞儀する、握手する、抱き合う、頬や額や唇を合わせるである。相手に敵意のないことを示す武器点検を許す握手・抱擁。手の位置が相手によって変わる合掌。イギリス・メキシコ・中南米では片方の頬、イタリア・スペイン・フランスでは両方にするという頬へのキッス。大切な頭を下げて相手に従順な態度を相手に見せるというお辞儀はその昔、西欧では一般的な挨拶であったらしい。今日では、お辞儀をする地域はアジアであり、ドイツ以外のヨーロッパでは珍しく、アメリカでも稀であり、儒教の影響の強い韓国でのお辞儀が相手によって多様であることは、事情を少しでも知る人には周知のことである。

 古くから日本食文化に密接な関わりを持つ鰹には、春の「登り」に、秋の「戻り(下り)」という生態があるという。詳しくは本「まちづくりニュース」の『魚屋の独り言』に任せたいが、町なかで、名前も知らない人にでも目のあった人には軽く会釈を交わすのは、これまでエチケットとしてなされてきたことであり、朝の散歩に千里川を上り・下りする際、「あいさつ運動」のノボリの下で目をそらす児童生徒ばかりの中で、恥かみながら挨拶をしてくれる中学生の女の子に“お家での躾”を感じてうれしい。
 最近、公園・道端での犬の糞の不始末が目立って悪くなってきている。そこで、犬に眼が行き、糞の始末が出来ず、行き交う人にも挨拶が出来ない人へのお伺い。他人が、何気なくやる頭を撫でようとするのは犬の頭の上が死角であってマナー違反で噛まれる、「犬への挨拶」で頭から行くのは危険というのは、確かですか?やはり、万事足元から始めることが躾のポイントなのでしょうか?

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.36に掲載)


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