【豊中駅前の歴史:15】『商業近代化豊中地域計画』から(2010年6月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。
この欄で豊中のまちの歴史を辿っていることを聞き、知人が文献を貸してくれました。昭和51年豊中商工会議所発行の『商業近代化豊中地域計画』です。作成メンバーには、学者・研究者、事業者、行政の多くの方々が関わっており、今では懐かしい名前が出ています。その友人の話によると、この報告書は、当時としては珍しく、“商業とまちづくり”、“商業とコミュニティ”を中心に据えた“商業のマスタープラン”として全国的にも高く評価されたものだといいます。そういう意味があってか、商業の歴史と共に、まちの成り立ちが書かれています。少し、取り出してみます。

——先ず「豊中村」について
【商業近代化豊中地域計画】“江戸時代、本市域には、大名青木氏が(1万石)があり、麻田藩を築いて政治を行ったが、上新田は淀藩の領地、桜井谷には阿部藩の陣屋が置かれ、他に一橋藩領、保科藩領や代官支配地、公家領、旗本領などが入り組んでいた。これは徳川幕府が豊中地方を畿内の重要地域として、支配をゆるぎないものにするため、譜代大名、旗本などの所領を入り混じらせ、さらに天領を配して「碁石を打交候様」な錯雑した極端な「入組み支配」を行った結果である。このため全体として統一感がなく、明治維新後も、府県、郡村の離合集散を重ねたのである。”  “明治22年4月、町村制の施行とともに、「豊中村」の誕生をみたのである。ちなみに当時の人口は2、267人である。しかし、農村生活は、幕末以来の延長を続け、ことに明治10年代の不況には転落するものが目立ったといわれている。このような農民生活の窮乏と農業の衰微の状態から、近代的住宅都市として発展する要因をつくったものは、「箕面有馬電気軌道」の敷設であった。”
——前回までは中右さんから駅西口の住宅形成についてお聞きしましたが、豊中駅前の後背地の住宅形成については
【商業近代化豊中地域計画】“この頃の耕地価格の高騰は、都市の事業家や農村の地主たちに、住宅計画を一層進めさせた。曽根台地の芦田ヶ池付近の開発が進む一方で、大正7~8年ごろの土地熱に刺激され勃興した北大阪土地会社が、大正10年に上野方面に住宅地を開いて、豊中の住宅地化が東北部に延びる契機をつくった。“大正12年9月1日の関東大震災を契機に、東京付近で住宅を郊外に移す傾向が強くなると、その影響が大阪市付近に現れた。こうした風潮を敏感にキャッチした電鉄会社や大手土地会社は宅地造成を盛んにはじめた。昭和5年頃から待兼山麓に清風荘住宅が、また刀根山の東側には千里園住宅の経営がはじめられ、山林、原野は本格的に住宅地へ模様替えしはじめた。・・・バス交通の時代を迎えると、住宅地の遠心化現象が目立ち、電鉄オンリーの時代にはおもいもよらなかった地区の経営もはじめられた。” “昭和7年に箕面街道に村営バスが運転されて、桜井谷野畑に大同土地会社が永楽荘住宅地を売り出し、昭和8年から阪急電鉄が千里山丘陵の中央部の島熊山の山麓の森林の中に東豊中住宅の経営を実施し、豊中駅とバス連絡によってそれぞれ住宅経営に新機軸を打ち出した。東豊中住宅地は、電鉄会社が当時、沿線に経営したものとしては最大であり、先に売り出された豊中住宅地がとくに交通の利便をキャッチフレーズにしたのに対し、単に豊中の東にあたるというだけで「東豊中」と命名され、「環境の良さ」を売り物にしたものであった。”
——次回も「商業近代化地域計画報告書」から興味ある箇所をお伝えしたいと思います。


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