【まちなかの散歩:37】雨ニモマケズ(2011年9月)

 今なお、震災の被害から立ち直ろうと苦しんでいる東北の地・岩手に生れ、民を愛し続けた詩人・童話作家・教育者に宮沢賢治がいる。賢治が生まれる約2か月前に「三陸地震津波が発生して多くの災害をもたらしており、また誕生から5日目には「陸羽地震」が発生して母は賢治を両手で抱えながら念仏を唱えていたという。

 死後、評価が急速に高まった彼の作品には、自分の裕福さと農民の悲惨な境遇との対比が生んだ罪の意識や自己犠牲の気持ちが満ち溢れている。これは、幼い頃から親しんだ仏教も強い影響を与えているという。さらに、質屋の息子であった賢治は、この地域を繰り返し襲った冷害などによる凶作で生活が困窮するたびに家財道具などを売って当座の生活費に当てる民の姿をたびたび目撃、この体験が賢治の人間形成に大きく影響したとされる。
 賢治は、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に首席で入学。研究生を経て卒業後、花巻農学校(現花巻農業高校)教師となる。農業指導の過労から病に倒れ、療養生活を繰り返しながら『雨ニモマケズ』を創る。1933年(昭和8年)9月21日に急性肺炎で死去するが、この年3月3日に「三陸沖地震」が発生し、大きな災害をもたらしている。
 誕生の年と最期の年に大きな災害があったことは、天候と気温や災害を憂慮した賢治の生涯と何らかの暗合を感ずるとも言われている。地震直後に友人に宛てた見舞いの礼状には、「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いている。

『雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒドリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ…』

 被災地現地に行き来するNPOの友人から、被災地に今なお残存するものを「瓦礫」とは言わずに「被災物」と呼ぶということを聞き、言葉でも被災者の側に立てるということを知る。
 社会の仕組みもそのシステムをどちら側に副って運用するかによって、よくも働き悪しくにも働く。揺れ動く価値観の中では、なお更のことである。

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.65に掲載)


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