【豊中駅前の歴史:84】箕面街道周辺-2(本町4丁目付近)(2017年2月)
今号は箕面街道沿い本町4丁目にお住まいの橋本さんにお話をお伺いしました。
——橋本のタバコ屋さんを近所では知らない人はいないと思いますが、タバコ屋さんはいつ頃からされていましたか。
橋本氏:私が生まれた頃からですね。父がこの地に移ってきたのが昭和6年と聞いています。大工だった父は利倉から当時建築の需要が多かった豊中に引っ越してきたのだと思います。当初は駅前の池田実業銀行の近くに住んでいたそうですが、父が建てた2軒長屋の片方が空いていたのでここに移り住み、もっぱら上野の辺りで家を建てていたそうです。戦後まもなく、工務店とは別に氷と薪や炭、練炭などの燃料を売るようになり、電気やガスが普及するまでは毎日配達していました。氷は電気冷蔵庫が登場するまでは必需品でしたね。昭和40年頃まででしょうか。
——幼いころの事を教えて下さい。
橋本氏:大池小学校(当時は大池国民学校)に通っていた頃は、戦時中で遊びといえばベッタンとビー玉でした。修学旅行は男子は貝塚にあった海軍訓練所でした。手旗信号、ボート漕ぎ、ロープの扱いなど5日間の実習で、夜はハンモックで寝ました。寝ている間にハンモックから落ちる同級生が多く、ドタッと夜中に音がしていましたね。
——そのころの箕面街道の様子は。
橋本氏:車が走るのは殆ど見たことがなかったと思います。馬力と呼んでいた牛や馬が引く肥を積んだ荷車をよく目にしました。各家庭から汲み取り、肥タゴに入れて田畑の肥溜めに運んでいました。その肥溜めに、酔っ払った人や遊んでいた子どもが嵌り大変だった話はよく聞ました。バスは走っていましたが木炭車で後ろに釜がありました。桜井谷までの坂は難儀していました。
——中学校は。
橋本氏:豊中市立第二中学校の一期生です。でも入学式は大池小学校でした。一年生の間は大池小学校の南側にあった木造2階建の別館が教室でした。2年生になって現在の場所(旧私立高等女学校)に移ってからは、毎日箕面街道を歩いて二中まで通いました。遠かったですね。学校までの道の周りは田んぼばかりでした。
——今とは大違いですね。
橋本氏:大阪万博の年(昭和45年)の中国縦貫道ができ、その頃から田んぼが家やマンションに変わって行きましたね。箕面街道を走る車も増えました。その頃か、車が家に飛び込んで来たことがありました。箕面方面から猛スピードで走ってきた車が、家の前のカーブを曲がり切れず前の電柱にぶつかり、その反動で車体が玄関に乗り上げました。幸い怪我はありませんでしたが、夜中の事で家族みんな飛び起きました。それにしても箕面街道は歩道が狭すぎますね。もう少し広く歩きやすくして欲しいものです。
——今日は有難うございました。
プロフィール/橋本 雄次 氏 昭和9年生まれ 本町4丁目在住
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