【豊中駅前の歴史:17】箕面街道周辺(2010年8月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。
今回は箕面街道沿い、稲荷神社の鳥居の前にある「オオサケモータース」の大酒敬治さんに、お話を伺いました。

——大酒さんは、大池小学校の卒業生ですね
【大酒氏】2年生の4月に桜塚小学校から、観音池の土手道を通って大池小学校に移りました。その頃の観音池は、いまは公園になっている池と国道176号に向って、お墓の前までの池と、2つに分かれた大変大きな池でした。大池小学校の周りがどの様であったかははっきりとは憶えていませんが、小学校の前の道は今のような広い道ではなかったと思います。
——その頃の大酒さんのお宅の周りはどんな風でした。
【大酒氏】先ず箕面街道はめったに車は通りません。私が小さい頃は砂利道でしたね。時々桜井谷と駅前を行き交うバスが走っていました。スクランブル交差点の横に入って箕面街道に抜ける道がありますね。この入り口付近に両側にビルが建っていますが、昔は大きな米屋さんと藁葺の大きなお屋敷でした。先に進むと道を隔てて両側にも大きなお屋敷があり、左側のお屋敷には自家用車がありましたね。あの当時自家用車があるおうちなど他かに見たことがなかったです。右側のお屋敷は大変広く、光源寺の前までの一画が一軒のおうちでした。箕面街道に向って両側には庭付きの落ち着いた佇まいのあるおうちが並んでしました。そのうちの何軒かは借家で、大学の教授が住んでしました。私の家の裏にマンションが建っていますが、そこも有名な大学教授のお宅でした。その前から箕面に向っては、橋本工務店まで田んぼが広がっていました。
——田んぼがあったことは私も憶えています。秋になると赤とんぼが群れを成して飛んでいました。
【大酒氏】橋本工務店から春日橋までの西側には、大きなお屋敷がいくつかありました。その頃は現在建設中のスーパーマーケットのところに、乗馬倶楽部があり、そのお屋敷の方々が乗馬を楽しんでいるのをよく見に行ったものです。春日橋西側の袂には川沿いに筍の加工場がありましたね。広かったですね。桜井谷は筍の大産地でしたから。
——稲荷神社はその頃はどうでしたか
【大酒氏】幼稚園は無かったです。木がうっそうと茂った森の中の神社という感じでした。今は参道の両側が公園とグランドになっていますが、その頃は池でした。現在グランドになっている方の池は、釣りぼりになっていました。池の奥の方まで桟橋が延びていて、みんな楽しんでいました。鳥居を潜って直ぐ右側に建物があって、そこで釣具やえさを売っていました。休憩所にもなっていましたね。
——お話を伺って箕面街道沿いの昔の雰囲気が伝わってきました。駅にも市場や商店街にも近く、自然が身の回りにあるこの辺りが、住むのに大変良好な環境であったことが良く分かりました。
長くこの豊中駅前に住まれて、強く記憶に残っている事があれば、教えてください。
【大酒氏】一つは、戦争の時代のことです。当時は我が家は炭など燃料を売る商売をしていました。その炭を収納する小屋で、12月28日には毎年、隣組のみなさんと餅つきをしました。辛いことばかりの時代でしたが、このときの楽しかった事は忘れられません。
2つ目は稲荷神社の秋祭りです。太鼓も5、6つ出ました。大変盛況でした。祭の後に村の青年団みんなが会館に集まってワイワイやるのが、本当に楽しかった。本町3丁目の青年会館はその頃はもっと広く、あの当時100人ぐらいは集まっていました。
3つ目は「大池スラッガース」の思い出です。昭和30年から43年まで、監督兼キャッチャーを10余年務めました。あの頃はスポーツと言えば野球でした。年に春と秋の2回、大門公園で大会が行われ、豊中市内全域から100以上のチームが参加しました。企業や工場、商店街など様々なチームがありました。我が「大池スラッガース」には、以前このコーナーに登場された、土橋さんや山本さんをはじめ、駅前の商店主など大池出身の人達が沢山参加していました。成績は、その間2回決勝戦まで進んで、残念ながら負けました。一度は優勝したかったのですが・・・・・・
——今日は有り難うございました。


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