【豊中駅前の歴史:69】越境入学の体験(2015年8月)

今号は前回に引き続き柳田さんにお話をお伺いしました。

——前回のお話の中で、「越境入学」をされたとお聞きしまたが。
柳田氏:私が小学校の5年生の時、昭和13年です。その頃はいくらかお金を払って「越境入学」する児童は沢山いました。私は住まいが上野(熊野田小区)になりましたので、「克明第三小学校(現大池小学校)」に越境入学しました。当時は略称で「克三」と呼ばれていました。大正2年に阪急電車の豊中駅が開設されて以降、大阪近郊から豊中に移住する人は増えて行きました。その多くは比較的上層知識階級の人たちで、子女の教育には大変熱心でした。そこで、周辺各村の小学校の校区から豊中町の克明小学校に続々入学し、児童数が増えたため、克明第二小学校が(現桜塚小学校)が大正13年に建てられます。その後も児童数は膨れ上がり、もう一校が新設される事になり、克明第三小学校(現大池小学校)が昭和11年に建ちます。昭和9年の室戸台風で木造校舎が相次いで倒壊したため、総鉄筋造りでした。克明三校には、高等師範卒業生や中等学校教員の免許状を持つ多くの優秀な教員が集まっていました。
——大きな池を埋め立てて造られたので「大池小学校」と呼ばれていますね。
柳田氏:新免村の大きな溜池の一つでしたが、田畑が住宅地化されるに伴ってその役割を終え、学校になったのでしょうね。当時、豊中の中心は岡町で、役場、郵便局、銀行、そして小学校などが集まっていましたから、旧新免村の中に小学校が建ったことは、それからの豊中駅前周辺の発展を考えると大変大きな出来事だったと思います。
——そして、「克三」を卒業され豊中中学校を受験、見事合格し、入学されるのですね。
柳田氏:当時、一学年の生徒数は250名。その内「克三」からが約20名でした。レベルの高さが分かります。「克三」から「豊中(とよちゅう):旧制豊中中学校」そして「浪高(なみこう):旧制浪速高等学校」と進むのが、今で言うエリ——トコースですね。そして東大、京大に進んだ生徒も沢山ありました。
——豊中市が文教都市と呼ばれるその始まりの頃ですね。
柳田氏:豊中中学校が建ったのが大正11年、梅花女学校(現梅花学園)が大正15年、同年に浪速高等学校、昭和12年には第十四高等女学校(現桜塚高校)と大正から戦前の昭和までに設立された高水準の学校を目指すため、質の高い教育を児童に与える教育施策が必要であったという事でしょうね。それは増え続ける移住者たちの住宅地を開発していく住宅施策と相まって、現在の豊中を形成していったのでしょうね。当時の豊中市の将来ビジョンがどのように描かれていたのか、大変興味あるテーマですね。
——今日はありがとうございました。

プロフィール/柳田 保男 氏 :昭和2年生/上野東一丁目在住


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