【豊中駅前の歴史:93】箕面街道にあったお風呂屋さん(2018年2月)
今回は小西さんからお話を伺いました。
——小西さんは長くこの地にお住まいですね。
小西氏:80年近くになりますか。当時看景寺にあった幼稚園を卒園後、大池小学校、豊中第2中学校、豊中高校と進み、大学は東京でしたが、卒業して豊中信用金庫(現:北おおさか信用金庫)に勤めました。勤務先は曽根でしたが受け持つ範囲は服部まででかなり広いものでした。商店街のお店や地主さんなどが主なお客さんで、新米だった私は地域の皆さんには大変お世話になりました。毎日スクーターで走り回っていました。
——自動車会社をされている小西さんがその頃はスクーターに乗っていたのですか。
小西氏:当時、自動車は大変高額なもので、家1軒が建つくらいの高嶺の花でした。ひょんなことから兄の友人から中古車を譲り受けることになり、運転免許証は既に持っていましたので運転は出来ました。乗って見て修理や整備をするところが余りにも少ない、しかし、これからはもっと自動車が必要とされる時代が来ると確信しました。自動車の整備工場を持ちたいとの強い思いを兄に相談すると、「知り合いに整備技師がいるから頼んでみよう。但し、人に任せるのではなく、自分が責任者になり指揮を執ること。人任せでは出来ない」と言われ、勤めを辞めて兄弟三人で会社を立ち上げました。
——176号沿いの稲津にありますね。
小西氏:法律など専門的なことは高校時代の友人に手伝ってもらい、土地は「上に高圧線が走っている土地は安い」と教えてくれた取引先のお客さんの助言をいただき、修理と整備の小さな自動車会社を立ち上げました。販売が主となっていくのは昭和40年代後半からでしたね。昭和30年代のテレビ・洗濯機・冷蔵庫の3種の神器についで、昭和40年代ではカラーテレビ・クーラー、そして自動車ですね。車を買って故郷に錦を飾るのが夢と一生懸命働く人も多かったです。今や一家に2台の家庭も少なくない時代になりましたね。自動車の歴史は排気ガスとの戦いの歴史でもあります。車が普及するに連れて、排気ガスが原因の公害問題が深刻な社会問題となっていきました。現在は規制も厳しくなりましたが、ガソリンで走る時代は終わりに近づいていますね。車はクリーンなエネルギーで走る時代がすぐそこまで来ています。子どもたちのためにも地球を汚さない努力が必要だと思います。
——2017年11月中旬号に掲載した「第91回 昭和の豊中駅前の道路」の写真に銭湯の煙突が写っていました。お風呂屋さんもされていましたね。
小西氏:自宅の裏側の箕面街道沿いにありました。下の写真は銭湯「豊中新温泉」の建物で、左に煙突が写っています。昭和30年頃に自宅の2階から撮ったものです。その頃は真正面に箕面の山に桂公爵の別邸が見え、お向かいの宮本さんは茅葺のお屋敷でしたね。家業が植木屋でしたので、戦前までは灯篭や庭石、植木などを保管する場所でした。戦時中は地下を掘って防空壕にして近所の人たちと空襲に怯えていました。終戦の玉音放送は向かいの箕面街道を渡ったブリキ屋さんのラジオで聞いた記憶があります。戦争が終わり、しばらくそのままにしていましたが、知り合いの銭湯をされている方から、「この場所で風呂屋をしたら良いと思います。ええ場所でっせ」と勧められ、母が始めました。当時の銭湯は様々な人たちが集まって話をし合う、庶民の交流の場、情報交換の場でした。その頃、家庭にテレビがあるお家は少なかったので、プロレスや野球、大相撲などを見るためにみなさん風呂屋に来ていましたね。
——今日は有難うございました。
小西氏:最後に一言。駅前は楽しく歩けるまちになって欲しい。車は少し離れたところに止め、街中には入れない。駅前から銀座通りを通って豊高道と箕面街道の2つの街道でウィンドウーショッピングをしながら稲荷神社に至る、そんなまちになって欲しいです。箕面街道は狭すぎます。人が安全に歩けてこそ、まちといえると思います。
プロフィール/小西 淳次 昭和11年生まれ 本町4丁目在住
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