【豊中駅前の歴史:92】戦前・戦後 小学生頃の思い出 本町4丁目付近(2017年12月)

今号は本町4丁目にお住まいの長澤さんからお話をお伺いしました。

——長澤さんは、この地に住まれて何年になりますか?
長澤氏:「私が幼稚園に通っていた頃からですから74年になりますね。昭和18年に父が家を建て、家族みんなで岡町から移ってきました。当時は、戦時中で建築資材が揃わず大変困ったと聞いています。代々繊維問屋を営んできた家ですので、店は大阪市内の船場にありましたが、住まいは空気の良い郊外と考えたのでしょうね。阪急電車が開通した頃は服部と岡町しか駅がなかったので、岡町で住宅を構えたのでしょう。その後、豊中にも土地を買い、敷地の一部に数軒の借家を建て、残りはそのままにしていたのが今の場所です。
——その頃のお家の周りは今とは違っていたでしょうね。
長澤氏:まず家の西側の法雲寺さんの方は、今はマンションや家がぎっしりと建っていますが、その頃は、辺りは田んぼや畑が広がっていました。門の前から箕面街道に向かっても今はたくさんの家が建っていますが、その頃は庭の広い大きな敷地の家が4軒だったと記憶しています。昔は、土地は1反(300坪)が単位として家が建っていたようです。箕面街道沿いも橋本タバコ店から箕面に向かって大きなお屋敷が数軒並んでいましたが、乗馬クラブ(現:万代スーパー)へ下りていく坂から春日橋、桜井谷、二中まで両側は田んぼばかりでした。戦後間もない頃は、バスは木炭車で、その坂に差し掛かると急に速度が落ちます。それを目掛けて友達と走って飛び乗っていました。中学校からの帰り道の楽しい思い出です。
——小学校の頃のことを教えてください。
長澤氏:昭和19年に大池小学校に入学しました。当時は「国民学校」と呼ばれていました。2年生で終戦になりましたが、食べることが大変だったことが今でも一番よく思い出します。給食の無い時代です。弁当を持たない友達や水筒におかゆを入れて持って来る友達もいました。代々商家でしたから、農家との付き合いもなく、食べ物を手に入れることが大変難しかったようです。母が箪笥から着物を出しては食料と交換していました。兄、姉、私、弟の食べ盛り4人の子供がいましたから本当に大変だったと思います。今でも食べることを大切にしています。出されたものは残さず食べる。食べ物はみんなで分け合う。これは家族だけでなく友達とでも同じで、その頃に食べ物を分け合った友達との絆は今でも固いものです。食べ物がなかった時代は、みんなで分け合ったり、貸し借りし合ったものです。お醤油や塩など隣近所で当たり前のことでした。その頃は断水が頻繁にあり、ご近所の井戸を借りて、皆さん水を汲んで持って帰っていました。お宮さんの森があるから良い井戸水が出ました。我が家は電話をお貸しすることが多く、私は電話係でした。しょっちゅうご近所中の方に「電話がかかっています」と呼びに行ったものです。
——終戦直後は本当に大変な時代だったのでしょうね。
長澤氏:大阪から空襲で焼け出され、住む家を失われた方も多かったと思います。私のところにも家を貸して欲しいとよく来られていました。昭和25年ぐらいまででしょうか。
——今のような家やマンションが建つ住宅地になったのは、いつ頃からでしょうか。
長澤氏:やはり昭和35年から40年台でしょうか。東京オリンピックや大阪万博など高度経済成長の頃からでしょうね。私の家の前の道沿いも大きく変わりました。以前、ある人からお聞きしたのですが、昔は法雲寺さんへの参道だったのではないかと仰るのです。そういえば、稲荷神社の境内の端から箕面街道(その頃はもっと狭い道だったはず)を渡り、蛇神社の前を通って新免村の法雲寺に至る参道だったのかもしれませんね。
——今日は有難うございました。

プロフィール/長澤 久之 昭和12年生まれ 本町4丁目在住


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