【豊中駅前の歴史:24】本町7丁目 豊高道周辺その1 戦前(2011年4月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。
今回は豊中本町郵便局の前局長中井さんにお話を伺いしました。

——このシリーズでお世話になった中右さんから、本町郵便局の昔の建物の写真を見せて頂いたことがあります。洋風のお洒落な建物でした。
【中井氏】私は大正14年に大阪の高麗橋で生まれました。父が大阪中央郵便局に勤めておりまして、上司のすすめもあり、昭和4年、豊中駅前に父が局長、職員1名で三等郵便局を開設する事になりました。当時は豊中には二等郵便局が岡町に、三等郵便局が服部にと2局だけだったと聞いています。その後、産業道路の開通のため現在地に移りました。昭和6年のことです。最初に郵便局舎を建て、続いて居宅と内田さん他の借家を建てたと記憶しています。郵便局の名前も最初は「豊中郵便局」、昭和11年11月の市政施行で「豊中新免郵便局」、町名地番変更で「豊中本町郵便局」と変わっていきました。終戦後しばらくの間はローマ字で局名を掛けた一時期もありました。
——その頃、辺りはどのようなものでしたか。。
【中井氏】私の家の前は松並木の原っぱで、ススキがきれいでした。父が姉たちと犬を遊ばせたり、犬にのみとり粉を振っては放し飼いをするのに格好の場でした。家から外を眺めると、ずーと遠くまで家も無く、一面田圃が広がっていました。
——前号(4月上旬号)のコラムにある「大正の中学生」の引用文にもありましたが、本当にそんな風景だったのですね。その一節にある「十間道路」今の豊高道について教えてください。
【中井氏】大正11年に大阪府立豊中中学校が開校され、豊中駅からの通学路として十間(約18m)の道路が開かれました。後にあまりに広すぎるという事で、7間(約12m)にして、残り6m程は売却されて、その代金を車道と歩道を区別するための費用に費やされたと聞いています。大正15年に梅田にあった梅花女学校が現在地に移転してきて、東豊中に向って右側は梅花女学生、左側は豊中中学生が整然と登下校していたと聞いています。当時の朝日新聞に「南側は梅花女学生の華やかな赤い流れ、北側は豊中中学生の力強い真黒な流れ、その間に9mの空間が残されています」といった記事が載ったそうです。
——大池小学校が創立されるのは、もっと後ですね。
【中井氏】昭和11年に「克明第三尋常小学校」として開校されました。当時の豊中町には克明第一(現在の克明小学校)と克明第二(現在の桜塚小学校)の2校がありましたが、児童数の激増のため増設する必要があったようです。そこに昭和9年の室戸台風で多くの小学校が被害を受け、生徒が死亡する悲劇が起こりました。このことから急遽、鉄筋コンクリート造りにする事になり、全国初の大蔵省の起債が下りたということです。大池は当時本町一帯の新免地区にあった数ある農業用溜池の中でも、豊中駅に近く適当な敷地であることから、埋め立てて学校用地にしたのでしょう。埋め立てられるまでの大池には、3間ほどの床を池の面まで張り出して魚釣りの出来る優雅な建て方の家がありました。池の水を抜いて魚をとったり、からす貝を採りに大勢の人が集まっていた事を憶えています。
——まだまだ伺いたいことが沢山ありますので、次回にお話の続きを聞かせていただきます。今日は有り難うございました。

(中井 和夫氏プロフィール:大正14年生まれ 前本町郵便局長 元大池地区社会福祉協議会会長)


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