【豊中駅前の歴史:9】刀根山道の今・昔(7)山中石松の石碑について(2009年11月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました
今回は、千里川橋のたもとにある石碑について、新免村に造詣の深い土橋さんにお話をお伺いしました。

——前回は一番街の形成について白井さんとお二人にお話をお伺いしましたので、今回は千里川までのお話をと思い、千里川の方へ歩いていきますと、最近NHKのドラマのロケがあったお豆腐屋さんの隣に、大きな石碑があるのを見つけました。あの石碑は何でしょうか。
【土橋】私も気になって調べてみました。資料によりますと、「千里川は昔から大雨のたびに幾度となく氾濫を繰り返してきました。この石碑は、明治28年(1895年)6月28日の大洪水で亡くなった山中石松の碑です。
この洪水で橋付近の堤防が決壊し、人々は水を食い止めるため土嚢や近くのお寺の畳を積み上げた。この時、山中石松は一番目覚ましく活躍したが、誤って畳もろとも濁流に飲み込まれてしまった。石松の働きで出水を防ぐ事ができたが、石松は再び戻らなかった。人々は、後にその働きを称え、その死を悼んで「破堤防御義死・山中石松の碑」を建て、手厚く弔った。」とありました。
——普段歩いていても、余り気が付かないですね。
【土橋】私が子供の頃はあの石碑は目立っていましたね。近所の人が花や供え物を供えていました。当時は周りに建物も無かったです。千里川の堤防ももっと低かったです。よく魚を採りに行きました。蛍もたくさん飛んでいましたね。
——このシリーズの4回目に村中さんからも大雨のために畳で出水を食い止めたとお聞きしましたが、新免村の歴史は水との戦いの歴史だと感じますね。
【土橋】水争いを水論というのですが、この水論についてこれも資料からですが、「市域の河川や池は農業生産特に稲作に欠かせない水の供給源でしたが、干ばつや洪水を契機に村々の間で度々、水論が繰り返された。
特に水の乏しい千里川上流地域での灌漑用水の取り入れをめぐる争いは、太閤検地を経て徳川時代、幕末、明治維新後まで繰り返された。
『水一滴が血一滴』と云われるほど貴重な水をめぐる争いは、時には死傷者を出す激しいものであった。」とあります。
——今は水田や畑を見つけるにも難しい町になりましたが、このような歴史の積み重ねを経て自分たちが暮らしているのだなとしみじみ感じました。
今日は貴重なお話をお伺いしました。有り難う御座いました。


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