【豊中駅前の歴史:10】刀根山道の今・昔(8)昭和40年代から現在を振り返る-2(2009年12月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました
今回は、「とんぺい」さんから千里川までの変遷を山本さんにお伺いしました。

——山本さんは戦前からお米屋さんをされているとお聞きしておりますが、どうして、お店の横(ビルの角)に、お地蔵さんが祭ってあるのですか?
【山本】あのビルは昭和51年に建てたのですが、その頃はオイルショックの真っ只中で大変苦労しました。あのお地蔵さんは、代々私の敷地の中にあったものです。ビルを建てるにあたり、お地蔵さんを他所へ持って行くのも忍びないと思い、今の所に安置して管理しています。お陰さまで近所の人達が毎日のように花や、お線香を上げて下さっています。
——先ず、昭和3~40年代の頃の刀根山道の様子をお伺いしたいのですが、……。
【山本】千里川を渡った所に「大成ストア」という市場があったのを憶えていますか。確か昭和30年代後半に出来たと思います。それにより刀根山や千里園だけでなく、2丁目や3丁目の方からも人が来るようになりました。「いなり湯」という銭湯もその頃に出来たと思います。辻本のタバコ屋さんから少し千里川の方へ行ったところです。その頃から商店が増えてくるのですが、それ以前からもお店はありました。「いなり湯」の並びには、散髪屋、薬局、オーダーメイドの紳士服店などがありました。向かい側は、私のビルが建つずっと以前から、豆腐屋、新聞屋、お茶屋、寿司屋、洋菓子店などがありました。刀根山や千里園からのお馴染みさんが結構ありましたから。
もっと昔には、辻本のタバコ屋さんを少し奥に入った所に「小谷医院」という内科・小児科のお医者さんがありました。今の晴山閣さんがある辺りには堀口医院という外科のお医者さんもありました。近くの人はみんなお世話になりましたね。そこから駅の方へ向っては大きなお家が建っていました。その辺りが今のようになるのは、平成に入ってからでしょうね。
——「大成ストア」や「いなり湯」の名前を聞くと小学校の頃を思い出します。
【山本】「大成ストア」の2階に「シロ」という衣料スーパーがありました。当時としては珍しいものでした。その「シロ」が今のグルメシティー(ダイエー)に移ったのが昭和48年頃だと思います。移ってまもなく「ジャスコ」になりました。ちょうど新開地ビルが建つ頃ですね。
——前々回でも、その頃から今の一番街が形成されていくお話をお伺いしました。刀根山道が今のように賑やかな通りになるきっかけは何でしょうか?
【山本】やはり「シェフカワカミ」が出来たことでしょうね。駅前のスーパーや商店にも影響を与えましたからね。それと「サンディ」の出店だと思います。出来て15、6年位になると思いますが、今のように人通りが増えたのは「サンディ」が出来たからでしょうね。それ以降、今までの大きなお家が、お店やマンションに建て変わって行っていますね。
岸田さんのおうちも近々にドラッグストアーに建て変わると聞いています。賑やかになるのは良いことですが、あのお家は茅葺で蔵もあり、惜しい気がしますね。
——山本さん、今日は有り難う御座いました。
今回、沢山の方々から刀根山道のお話をお伺いし、賑わい、伝統、暮らしを大切にする。そして安全で安心して歩ける通りにする。そんな事が、これからの刀根山道を考える課題のように思いました。取材に応じて頂きました皆様には、心から感謝いたします。有り難う御座いました。


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