【豊中駅前の歴史:4】刀根山道の今・昔(2)戦前の昭和を振り返る(2009年6月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。

——今回は、村中勇夫さんから刀根山道のお話をお聞かせ下さい。
村中さんのお家は代々3丁目にお住まいなんですね
【村中】そうです。過去帳を見ますと、分家して、私で8代目になります。
——それでは、駅前の成り立ちなど、先代から聞かされたお話を伺っていいですか。
【村中】明治43年に『箕面有馬電気軌道』(現在の阪急電車)が開業しました。「このときに始めて村に電気がついた」、「駅を誘致するため、村の主だった人達が『北大阪土地会社』(名称は定かではない)をつくり、阪急にそれぞれの土地を売った」と聞いています。
駅の西側は区画整理され、整然とした住宅地(玉井町、末広町、立花町など)になっているのは、電車の開通に併せ、阪急が住宅開発をした歴史があるからでしょうね。176号沿いにあるお墓は、それまでは玉井町1丁目にあったものを住宅開発のために移した、と聞いています。
——その頃、駅の東側の様子はどうだったのでしょうね
【村中】池が多い所だったと聞いています。
大池小学校は元は池だった事はみなさんよく知っておられると思いますが、昔は大池の南側には新池(お墓の北側)、その東には、今は公園になっている観音池、その斜め東に野々池、稲荷神社の前には上池・下池と、まだまだ沢山あったと聞いています。
——それでお墓から大池小学校の裏まですり鉢状になっているのですね。
【村中】みんな農業用のため池です。平池といって平地を土で囲った池ですので直ぐに水が溢れ、大雨の時などは、しょっちゅう総出で、畳と木の杭で堤防を補強しに行ったと聞いています。大池は「新免のツッパリ池」と言っていたそうです。
——昔のお話をもっと聞きたいのですが。今日は辻本さんに続いて、昭和10年代頃の刀根山道の様子を聞かせて下さい。
【村中】刀根山道の入り口には「丸正」という高級衣料品店が戦前からありました。その隣、産業道路(今の176号線)の方に向ってお菓子屋さん、すし屋さん、肉屋さんなどが並び、賑わっていました。向かい側にあった木村のパン屋さんで、友達とよくアイスキャンディーを買って食べました。
最近、刀根山道の入り口に能勢街道の石碑が建ちましたが、あの路地を入ると玉突き屋(ビリヤード)があり、2階はマージャン屋になっていました。その先には煎餅屋さんや飛行機の模型を売る店(ヤマザキヤという屋号だったと思いますが定かではありません)がありました。路地の横、今の摂津水都信用金庫の駐車場の辺りは原っぱでした。よく紙芝居が来ていました。小学校2年生頃だったと思いますが、その原っぱで遊んでいる時、すごい大きな轟音で地面も揺れて、まるで大きな地震が来たと思いました。後で聞くと枚方の弾薬庫の爆発だったそうです。
——そこから先のお話はタバコ屋の辻本さんからお聞きしています。
【村中】その辻本さんから千里川の方へ、道を隔てて、大工さん、酒屋さん、その隣に麹(こうじ)屋と呼ばれるおうちがありました。その昔は代々、麹を商っておられたのでしょうね。父からは刀根山道には人力車の待合があり、客待ちの間に車夫が将棋を指していたと聞いています。
なんせ、その頃の刀根山道の道幅は3m余りしかなかったと思います。
——道が今みたいに広くなったのはどうしてですか?
【村中】それは戦争中の強制疎開でしょうね。疎開した跡の家を潰して道を広げた。やはり戦争を境に、この通りも大きく変わって行ったと思いますね。
——戦争のお話が出てきたところで、今日は一区切りさせていただきます。今日は有り難う御座いました。


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