【豊中駅前の歴史:1】新開地市場の誕生 (2009年3月)

皆さんもよくご存知の通り、歩道橋から見る旧「新開地ビル」は跡形も無く更地になっています。再来年12月の完成をめざし、いよいよ建設が始まります。まちは時代と共ともに移り変わっていきます。このような時期に、これからのまちづくりを考える上で、まちの歴史を振り返ることも大変意味のあることと考え、まちの歴史に詳しい方々からお話を伺うシリーズを企画しました。


第1回目は、注目の新開地ビルの歴史を振り返り、豊中駅前の変遷を辿ってみたいと思います。今回は、その誕生までを一番街通りの松浦さんからお伺いしました。

——新開地ビルが建ったのは昭和43年と聞いていますが、その前身はバラックの市場だったそうですね。今日はその市場が出来るもっと前のお話を聞かせてください。
【松浦】昭和10年頃は今の新開地ビルがあった所は原っぱでした。年に1~2回サーカスが来ていました。散髪屋と写真館が前にあって、中にお風呂屋さんがあった位です。その前の三角の島状になった所には、阪急タクシー、寿司屋、和菓子屋、書店などがありました。また、今の三井住友銀行の辺りには、産業道路(現176号)沿いに衣料品店、薬局、カフエなど10軒ほどのお店が並んでいました。
——その頃の駅前はそんなにお店が少なかったのですか。
【松浦】いいえ、もうその頃は既に駅前は大変賑わっていました。遠くは池田や能勢口から、また後背地の刀根山や桜井谷、東豊中などから大勢買い物に来られていましたよ。
産業道路を渡った今の人工広場から池田銀行までの間に市場があり、豆腐屋さん、八百屋さん、お饅頭屋さんなど40軒ほどのお店が軒を並べていました。当時は“旧市場”と呼んでいました。豊中駅を中心に、産業道路を挟んで南に向かって30軒ほど、北に向かって3~40軒のお店が並んでいました。この通りが一番賑わっていた記憶があります。また十軒道路(現・銀座通り)を挟んで両側に40軒ほどお店がありました。その中には阪急市場(現チェリオビル)もありました。今と比べるとお店の数は少ないかもしれませんが、当時としては、かなりの規模ではなかったかと思いますよ。
大正10年頃に阪急電車の駅が出来、産業道路が昭和8年頃に通り、線路沿いには歯医者さん産婦人科、外科などの医院が建ち並んでいました。銀行があり、材木店や工務店、自転車屋、洋装店から、市場、食堂などもあり、ほとんど揃っていたのではないかと思います。池田や岡町とは違う、所謂(いわゆる)“ハイカラな町”だったと思います。今の豊中駅前のイメージがこの頃に出来たのではないかと思いますね。
——それから戦争の時代に入って行くのですね。
【松浦】戦時中は食糧難のため、その原っぱで大池小学校(当時克明第三小学校)の児童が芋などを作っていました。今は大池小学校の前の道は広いですが、その当時は畳店、文房具店、ランドリーなど割と大きなお店が並んでいました。向かい側はアパートでした。小学校に隣接して豊中実践女学校がありました。戦後は制度が変わって無くなりました。
——有り難う御座いました。おかげさまで戦前の豊中駅前の姿が見えました。次回は新開地市場の誕生の話を聞かせてください。


2009年2月17日松浦幸夫氏談
昭和4年生まれ。豊中駅前で生まれ育った。大池小学校の第1回入学生(昭和11年)。おせんべい屋「松栄堂」を経営。昭和54年豊中駅前七夕祭りを始めた。


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