【まちなかの散歩:133】歴史・専門家・困難に立ち向かう姿勢(2019年9月)

 広島・長崎への原爆投下を受けた日、敗戦と平和への終戦記念日と、今や遠くなった感のある日本の歴史に大きな影響を持つことを自覚するべき酷暑の8月が過ぎた。しかし、メディアが意欲的な取り組みを避けて争点隠しが目立った参議院選挙、そっと進められる福島原発の現地での処理、それぞれ2度目の東京オリンピック・大阪万博に耳目を誘導され、郵政民営化の尻拭い、近隣諸国との緊張に外交上手の結果がこれかと、歪められ続ける世間の動きにどう対応するのか。政治・経済・行政・司法の「専門家」に任せてきたのに何故だとも思いたくなる。専門家の自負と歴史を学ぶ姿勢はなかなか見られない。
 過日の豊中まちづくりフォーラムで「市民の意見を聞いて建築物を建てまちをつくる」という話が講師から出た時に「それでは“専門家の矜持”はあるのか?」と迫った専門家がいた。(会場には豊中のまちづくりを担うと自負する面々の顔はないが)まちづくりフォーラムで求め続けてきた厳しい質疑である。
 豊中のまちづくりの考え方は、「“みんなの計画、役所の支援”と“専門家の知恵を借り、行政と連携してまちづくりを進める”」であった。かつて、そんな考え方で進めていた「豊中方式」のまちづくりに対し、「今、そんなまちづくりは流行らない」と言い放った学者の言が、残念ながら今や身に沁みている。今の流行は、残念ながら「軽く」「楽しく」「重い課題は人任せ」かもしれない。
 現在のまちづくりのリーダーが、これまでのまちづくりの歴史を学んだとは寡聞にして知らない。七夕まつりが「歩行者天国を目指すものだ」と言っても、かつて行われた4日間もかけて行われた豊中駅前での交通社会実験の記事が本紙「豊中まちづくりニュース」に繰り返し記事となっていても、活動の中心メンバーが、その実験内容を検証したという話を知らない。無知は犯罪であることの自覚があるのか。
 まちづくりとは何をすることだと問われれば、3つの“し”、あるいは5つの“し”であると答えてきた。『仕組みづくり(地域社会のルールづくり)』、『仕事づくり(地域経済の活性化)』、『施設づくり(狭い意味での都市計画)』であり、「自然観環境保護」、「まちづくりを進める市民・人づくり」でもある。
 戦争の悲惨さを知らない、知ろうとしない政治家が、「戦争で北方領土を取り返す」と暴言を吐き、さらにその排斥された議員を政治家として仲間に入れるという愚を犯し、戦争のできる国に国民を煽り立てる行為を批判はするが、我に返ればその姿と大きな違いはないというのは大袈裟だろうか。
 今日の活動が自転車問題も花いっぱい運動も道半ば、スクランブル交差点には大きな商業ビルが建ちはだかる。根本に迫ることのない、やっている感を自ら満足させているだけと地域から揶揄されてはいないか。先人の話を継承することは“苦しい”。独自の路線を確立してみたいものだが、先人が専門家や行政と切磋琢磨して試行錯誤してきた現場での歴史を謙虚に学ばずに、頭を打ち壁にぶつかって方向転換する模索行動はまちづくり活動をどこに導こうとしているのか。多数決という逃げではないのか。
 まちづくりは、土地・空間を対象とするときには「都市計画事業」で他人の権利を制限してでも公共の利益を実現することでもあり、限られた財源をどう獲得するかの優先順位を巡っての“闘争”でもある。
 行政との連携と役割分担、行政権限をどう行使させるかについて行政権限を監視するために議員を選び、首長選挙とともに議会を通じて政策の優先順位を決定させるのである。行政の不作為による地域の不利益はこれを正さねばならない。この戦いを放棄して、陳情すれば実現するという“棚からぼた餅”が落ちてくるのを待っているほどの趣味の世界でもないと考えるがどうであろうか?
 ハードのまちづくりが座礁に乗り上げたと言っては、安易なソフト、イベントの“まちづくりごっこ”へとシフトしていくのだろうか。宮沢賢治ではないが、易きについて、おろおろするばかりでは現状は改善されないであろう。”蟻の一穴“ を懸念し敢えて『嫌われる勇気』で申し上げる。

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.232に掲載)


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