【豊中駅前の歴史:104】『豊中温泉』60年の歴史に幕(2019年9月)

今回は今年8月末で閉店された「豊中温泉」の西坂昇さんにお話を伺いました。

——西坂さんには6年前にお話を伺っていますが、突然に閉店とお聞きし驚いています。60年間を振り返って今の感想を聞かせてください。
西坂氏:豊中駅前とは思えない長閑な風景ですね。人工広場(人工デッキ)が完成したのが昭和42年(1967年)、と言っても今の駅前広場ではなく、電車に乗るために国道を跨ぐデッキに上がり、1階に降りて乗る構造で、上下線を中跨線橋(こせんきょう)で繋いでいました。この写真は人工デッキができる前の駅前で、車も1台しか写っていないので、昭和30年代の前半頃だと思いますね。写っている花壇は今の駅前広場支柱がありその下に花壇があるところですね。マストメゾン側の、この頃でしたら風呂屋さんがあった辺りから撮ったのでしょうね。地域とお客さんに育てて頂き60年間営業を続けて来れました。本当に皆さんのおかげです。心からお礼を言いたいと思います。
——お客さんからはいろいろな声があったでしょうね。
西坂氏:「是非続けて欲しい」と皆さんに言われました。「釜などの修繕費は寄付を集めるから」、「ボランティアでスタッフを集めて手伝う」、「料金を値上げしてでも」など、有難くて涙が出ました。「閉店と知って小学校の娘が泣いていた」と聞いて大変辛かったです。SNSで閉店を知って、東京からわざわざ来てくれた人もいました。
——毎日午後3時開店ですが、30分前から一番風呂を待っているお客さんが沢山いましたね。
西坂氏:3世代にわたって通ってくれていた方。骨折の手術後に良いと聞き効果があったと毎日来てくれる方。健康のためと言って毎日東豊中から往復歩いて通ってくれる方。職業も年齢も様々の方が裸の付き合いの出来る場所だったのでしょうね。ゴルフコンペ、旅行会、飲み会、ノンアルコールの会などお客さん同士で企画し、私たちがお世話をする会も頻繁にやっていました。“体にぬくもり”、“心に明るさ”、そして“触れ合いの場”を提供してきたのかなと思います。
——昭和35年の開業ですね。
西坂氏:当時の入湯料は17円だったそうです。「きつねうどんと同じぐらい」と父が言っておりました。だっこチャンが大ブームし、安保闘争があった年ですね。わたしは当時小学校5年生でした。それからの60年の間に、店の周りはすっかり変わりました。観音池公園までの道沿いは友達と野球していた原っぱは駐車場になり、古くからあったお家はマンションや美容院、医療ビルなどに建て替わりました。国道沿いも戦前からあった楽器店「交声堂」、「ラケットの店」、「深江のガソリンスタンド」、それに寿司の「うを元」も閉められ、その頃からあったお店は「奥平金物店」だけですね。
——毎年お相撲さんが来ていましたね。
西坂氏:今年で12年になります。豊中に来た当初、稽古後の汗を流したいと聞いて、朝風呂を焚いて、入浴後ジュースやパンを用意しました。余程楽しかったようで、その度に親方から帰りが遅いと怒られていたようです。その頃は「蒼国来関」以外は子供みたいな子ばかりでした。今は、「荒汐部屋」も大きくなり、みんな立派な関取になっています。今でも私たち夫婦を「大阪のお父さん、お母さん」と呼んで慕ってくれています。
——長い間お疲れ様でした。今日は有難うございました。

プロフィール/西坂 昇氏 昭和24年生まれ/本町1丁目在住
※「豊中温泉」は、まちづくりニュース2013年8月中旬号に「豊中温泉周辺」として掲載し、また合本コラム集『豊中駅前の歴史を振り返る【第2版】』の第48回にも収録しています。


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