【まちなかの散歩:78】春は名のみの風の寒さや(2015年2月)

 ♪春は名のみの風の寒さや 谷のうぐいす 歌は思えど・・・(『早春賦』)♪ の通り、寒さが続く。
冬の間、大阪では寒さと引き換えにカニを待ち焦がれるが、わずか100km程度しか離れていない日本海側では曇天・雪の続く日々に晴れ間を待ち焦がれる。コトンコトン、コトンコトンと雨戸やガラス窓を打ち鳴らし始めて暫らくすると、あたりがシーンと静まり返る。“弁当を忘れても、傘(長靴)忘れるな”と躾けられる“雪起こしの風”が吹く田舎の冬である。そんな若狭・北近畿を訪ねてみようと思い立ち、大阪駅から特急サンダーバードに乗り込み敦賀で下車する。まず『人道の港・敦賀ムゼウム』を訪ねるのが目的である。
「旧敦賀港駅舎」の資料によれば、JR敦賀駅からの「ぐるっと敦賀周遊バス」で15分余の敦賀港は、古くから大陸への玄関口として栄え、1912年(大正元年)6月には新橋(東京)と金ヶ崎(敦賀)間に『大陸横断』の欧亜国際連絡列車が運行されていて、敦賀港・ウラジオストクを連絡船でつなぎ、シベリア鉄道を利用して日本とヨーロッパの主要都市とが結ばれ「東洋の波止場」とうたわれている。そんな敦賀港は、また『人道の港』でもある。1940年にリトアニア領事館で杉原千畝が発行した「命のビザ」を持ったユダヤ人難民が上陸した日本で唯一の港である。1939年(昭和14年)ナチス・ドイツ軍がポーランドを侵攻しスターリン・ソ連軍からの迫害から逃れるユダヤ人難民に残された逃避ルートは、シベリア経由で日本に渡り、そこから第3国を目指すものであった。1940年(昭和15年)7月18日早朝、ユダヤ人難民はナチスの魔の手から逃れるため、リトアニアの日本領事館に日本通過ビザを求めて押し寄せる。しかし、当時の日本外務省は杉原千畝領事代理にビザ発給を許可しなかった。彼は悩みぬいた上で外務省に背いてビザ発行を決断し、4500人のユダヤ人を通過させている。その後もユダヤ人難民は、満州引揚記『嗚呼命』(加藤茂著)の体験に似て過酷な運命に翻弄されながら敦賀に着く。彼らには敦賀がヘブン(天国)に見え、「自由の国・日本」に小躍りしたという。
 今、世界ではイスラム教徒・ユダヤ教徒・キリスト教徒、仏教徒、ヒンズー教徒、各宗教を信じる人々が争っている。このエピソードは日本が果たすべき役割を示しているといえないだろうか。埋もれようとしている歴史を学び、伝えねばならないと考えた。
 また、特定秘密保護法が昨年12月10日に施行され、役人の行動に厳しい規制が入り、国民の政治を監視するために必要な情報が限定されるようになると指摘されるが、外務官僚・杉原千畝氏の行動に倣い、毎日新聞・西山記者に学んで「成らぬものは、ならんのじゃ!」と勇気を持って行動して欲しいものである。その内、「本家のアメリカ」に学んで、国民のための法改正をする政府にしていけるかもしれない。これまた、心したい。
 もて囃される「松葉ガニ」をよそに流通に乗らないメスの「せこ蟹」は地元で安くて美味い絶品とされる。地域社会の再構築に目立たずとも、しぶとく活動を続けたい。豊中駅前まちづくり会社も昨秋に役員陣を強化し新たなスタートを切っている。

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.144に掲載)


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