【まちなかの散歩:73】記念日を考える(2014年9月)
暑苦しい夏が続く。69年前に日本に戦争があり、どこと戦ったかすら知らない若者が少なくないとテレビで知り愕然となる。夏休みで遊びにきていた6年生の孫に尋ねても「太平洋戦争のことでしょう?」と明確に答えているのに・・・。その一方で、「生きていて済まない」と呟く老人がいることを改めて知る。海外に赴任している息子から「こんな記事があったのでご参考までに」とのメールが届いた。出所を調べると8月9日の産経新聞の記事を送ってくれたものであった。
『昭和20年になると、大阪府豊中市でも6回にわたる空襲があった。当時、国民学校6年生であった中右(なかう)吉信さん(80)は、7月30日にあった6回目の空襲の際、伊丹飛行場(現・大阪空港)を襲う米軍戦闘機「P51ムスタング」が高射砲によって撃ち落される光景を目撃したという。
中右さんが通っていた学校は、20年3月の大阪大空襲をきっかけに授業が休止となったが、校庭は食料を確保するためにサツマイモ畑になっていた。7月30日の朝、中右さんは畑に水をまく当番だった。
登校してまもなく、警戒警報が発令され、同級生とともに急いで自宅に向かった。東の低空に1機の米軍機が見えた。「隠れろ」。大人の叫び声が聞こえ、とっさに幅1メートルほどの農水路に隠れた。水路をふさぐ木材の間の隙間から西の空が見えた。数機の戦闘機が伊丹飛行場を襲っていた。
そのときだった。「低空で攻撃するP51に、高射砲が命中したんです。高度を下げるためエンジンを一時止めていたからだと思いますが、P51は火を噴くこともなく空中分解しました」。次の瞬間、白いパラシュートがスルスルと開いて風で南東方向へ流されていった。・・・墜落した2機から2人の米兵がパラシュートで脱出したが、いずれも一両日中に死亡。真田山陸軍墓地(大阪市)に埋葬された。戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は、2人が死亡したのは十分な医療処置が施されなかったためだとして、軍関係者を戦犯裁判にかけた。・・・』
かつて5中近くの公園で不発弾が発見されたように、閑静な住宅地にも戦争は襲ってきていた。学校でも地域でも戦争体験が語り継がれねばなるまい。
そして9月1日は防災の日である。”天災は忘れた頃にやってくる“(寺田寅彦)に備えて関東大震災の日に因んで制定された。「政府、地方公共団体等関係諸機関をはじめ、広く国民が台風高潮、津波、地震等の災害についての認識を深め、これに対処する心構えを準備する」とされているが、流言蜚語に惑わされて、社会的弱者を虐待した典型的な歴史的事件の起きた日でもある。
昨今、不満の鬱積を、その根源的目標ではなく歪んだ的をめざす傾向が極めて顕著であることを考えれば、未だ多くの傷癒えぬ人々がいる今日、9月1日を「防災を弱者の視点・地域社会の視点から真剣に考えよう」とすると同様に、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」としておくだけでなく、「終戦」を根源的に考える日として国民の祝日として制定してはどうだろうか。
(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.135に掲載)
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