【豊中駅前の歴史:59】「豊中駅前商店会」(2014年9月)

「昭和40~50年代」
今回は前豊中駅前商店会会長の大城さんからお話を伺いました。
——大城さんのビルは豊中北交差点のすぐそばの国道176号に面してありますね。
大城氏:角のクリーニング屋さんの2件隣になります。今はテナントさんにお貸ししていますが、以前はそこで商売をしていました。
——いつ頃からですか。
大城氏:昭和34年です。父親が勤めていた会社から独立してこの地で開業しました。2階建で上は住まい、1階を店舗にして紳士服と婦人服の販売を始めました。私はその頃はまだ中学生でしたが、父は開店日になっても、こんな静かなところで商売したのは間違っていたのではないか。お客さんは来てくれるのかと大変心配していました。有り難い事に開店するや否や店内はお客さんで溢れ返り驚く程人が来てくれました。まだ物が無い時代でしたからね。
——それから東京オリンピック(1964年/昭和39年)、大阪万博(1970年/昭和45年)など高度経済成長の時代になっていく訳ですね。
大城氏:その頃は大手の販売店がなかった時代ですので、多くの人は我々のような専門小売店で買われていたと思います。今はカードが当たり前ですが、その頃はほとんどが「月賦販売」でした。お客さんは毎月お支払いに来られるか、こちらから集金に行きます。毎月お客さんと出会うので、次はこれはどうですか、このようなものもありますよと、常にセールスができる訳です。洋服だけでなく時計や靴など身に付けるものほとんどを売る店になっていきました。その頃には店も3階建てになり、「マルショウ百貨店」として営業していました。
——その頃の豊中駅前商店会はどんなお店がありましたか。
大城氏:はっきりとした記憶はないのですが、駅前から、下駄屋さん、西川精肉店、電気屋さん、食料品店、土手嘉(うどん屋さん)、日興商会、立ち飲みができる酒屋さん、牛乳屋さん、笹の家(食堂)、靴屋さん、材木屋さん、新聞屋さんなどまだいくつかあったと思いますし、正確な位置は覚えていません。今、近畿大阪銀行のあるところは、そのころは「桜パン」がありました。私たちの店から蛍池の方へ少し行ったところに、今は駐車場になっていますが、そこに桜パンの工場がありましたね。
——たくさんのお店が並んでいたのですね。
大城氏:昭和53年に父から会社を任されることになり、現在の4階建てのビルを建てました。写真①はその時の工事の様子です。左隣は新井の自転屋さん、向こうにジャスコとホテルアイボリーの建物が見えますね。その頃からこの通りも少しづつ変わっていったように思います。三菱銀行(現三菱東京UFJ)ができたのもこの頃で、木造の建物がビルに変わっていき、物販店や飲食店なども少なくなっていったように思います。
——写真についてお聞きします。
大城氏:写真②は昭和40年頃の私たちのお店で、お客さんを白浜温泉に招待した時のバスが止まっています。写真③は現在市の駐輪場になっているところに、招待旅行のバスが止まっています。バスの後ろの建物は近畿相互銀行(現近畿大阪銀行)です。この頃はこの場所にありましたね。
——今日はありがとうございました。


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