【豊中駅前の歴史:68】上野地区を振り返る(2015年7月)

今号は戦前から上野にお住まいの柳田保男さんにお話をお伺いしました。

——いきなりですが、木炭バスに乗られたことがあるとお聞きしましたが。
柳田氏:走っているのを見ただけで、乗ってはいません。戦時中から戦後間もない頃は木炭車のバスやトラックが走っていましたね。炭を炉に入れ焚くと出る一酸化炭素をエネルギーにして走っていました。カーバイド車もありました。ガソリンがない時代の代用エネルギーですね。
——豊中に住まわれるようなったのはいつ頃ですか。
柳田氏:私が9歳のとき(昭和11年)に西口の常盤通り(現末広町)に越して来ました。克明第一小学校(現克明小学校)に通っていました。その2年後に現在の上野に移りました。その頃は道(曽根・箕面線)の西側(現上野西)に梅花女学校が建っていましたが、東側(現上野東)は田んぼや畑ばかりで、住宅などは殆どありませんでした。住所も「豊中市○○番地」で「上野」の地名は未だありませんでした。郵便には「梅花の横」と書いてあったのを憶えています。今の曽根・箕面線も当時は3m位の道幅の農道でした。この道は「能勢街道」に通じる道で、大阪から曽根の辺りで別れ、現在の縦貫道路を横切り箕面方面に続いていたと聞いています。
——上野に移ると通う小学校も変わりますね。
柳田氏:5年生から「克明第三小学校(現大池小学校)」に通うことになりました。当時上野は熊野田小学校の校区内でしたので、所謂越境入学です。今は上野小学校になりますが、それは戦後からです。小学校を卒業して豊中中学校(現豊中高校)に入学しました。豊高の校舎はグランドより高く建っていますね。農地は水路より低いので、土入れをして基礎を高くして建てなければいけません。階段があるのはそのためで、私たちの住宅もそのようになっています。
——上野地区は西も東も住宅がいっぱい建っていますが、前々号で取材した上野西1丁目のような区画整理された地区は無いようですが。
柳田氏:あのような地区は他に見当たりませんね。戦後の農地改革や都市化により、住宅ブームによる住宅開発は昭和30年頃から始まり、昭和40年頃から大阪万博の頃でピークを迎えます。地主さんがそれぞれの思惑で農地を手放して行ったので、あのように区画整理された地区はありませんね。
——その頃に大半の農地は宅地に変わって行ったということですね。
柳田氏:農地が無くなっていくと灌漑用の池が不要になります。戦後の宅地化の影響で池が埋め立てられていくわけです。戦前の例(昭和13年頃)としては、本町8丁目に「寿楽荘」と呼ばれていた地区がありましたが、あれは「大野池」と呼ばれていた池を埋め立てて住宅地にしたものです。
——今日はありがとうございました。

プロフィール/柳田 保男 氏 :昭和2年生/上野東一丁目在住


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