【豊中駅前の歴史:73】「戦争を振り返る-6」(2015年12月)

「図説 豊中空襲」より
今号も引き続き戦時中の悲惨さを忘れないため、第61回・62回でも掲載しました「図説;豊中空襲」(能登宏之 編・著)から戦争を振り返りたいと思います。数多く寄せられた体験者からの伝言の中から、中野宏士さんの手記を一部割愛しつつ紹介します。

「12歳の体験」玉井町空襲
私が豊中で空襲に遭ったのは、昭和20年6月7日の昼頃でした。当時、私は12歳で豊中私立明徳国民学校(現克明小学校)を卒業し、旧制豊中中学校(現豊中高等学校)の1年生に入学して間もない事でした。住んで居た場所は旧北通二丁目(現玉井町二丁目)の西の端の家でした。・・・全く突然、まるで大地震が起きたかのように、建物が大きく気揺れました。慌てて台所へ走り土間にひれ伏し、爆弾による揺れにひたすら耐えました。しばらくすると、親戚の善脩(19歳の青年)が来て、「宏士、線路の向こうへ行くぞ」と言われたので、家を飛び出し、宝塚線の線路をわたり、産業道路(現国道176号)を横切り、斜面下の直径1メートル位の土管にもぐり込みました。そこへたどり着くまでの途中は、土ぼこりや家屋内にあった品々がゴミのようになって舞い上がり、まるで夕闇のように薄暗くなっており、地面が余震のように揺れる中を、足が地につくような感じがしない状態で、一目散に走り続けました。・・・
しばらくして、激しい夕立が降る時のように、ざあーと言う響き音がするとすぐに爆弾が落ち、地面が激しく揺れました。そんなことが感度か繰り返され、まったく生きた心地がしませんでした。5月の中頃に疎開先で亡くなった祖母に、思わず「助けてください!」と心の中で叫びました。非常に長く感じた爆撃がやっと終わり、土管から出て自宅に戻りました。自宅も相当いたみ大きなコンクリートの塊が天井板の上に落ちていました。自宅の前では、近所の奥山さんの夫人が担架に乗せられて運ばれていきました。顔は土気色というか、恐らく亡くなられていたと思います。また、別の女性は爆撃で亡くなり、背負っていた赤ちゃんは爆風で吹き飛ばされて行方不明になっていると聞きました。・・・
その後、聞いた話では、6月7日の空襲では、近所で50人ほどの方が亡くなったそうですが、その中に、友人の黒田君も含まれていました。黒田君の家族3人と親類の人3人が土蔵に避難したそうですが、直撃弾を受け、6人全員が亡くなったそうです。その後10年間、私は黒田君の母親や祖母が髪を振り乱して、顔中血まみれの姿で夢に現れ、非常に恐ろしい思いをしました。きっと、無念の思いを残して、この世を去った事でしょう。・・・
現在私は78歳になり、最近身体のあちこちに不具合が起こり、人生の最終段階が近づいたことを痛感します。戦争は闘う人だけでなく、一般民間人にも非常な不幸をもたらします。例えば物資、特に食料品の極端な不足、思想信条に対する抑圧、人間のエゴの醜さ、家族の離散、家屋財産の破壊等々、これらはすべて負の蓄積です。それらは人々に有形無形の苦痛と空虚さと悲惨さと絶望感を与えます。どんなことがあっても、愚かな戦争は避けなければなりません。この事を強く訴えたいと思います。


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