【豊中駅前の歴史:48】豊中温泉周辺(2013年8月)

今回は「豊中温泉」の2代目西坂昇さんからお話をお伺いしました。

——「豊中温泉」の開業はいつ頃ですか。
西坂氏:昭和35年の4月に開業しました。私が小学校5年生の時ですね。当時は旧ニッショー(その頃は映画館「ひかり」)の隣にあった「豊来湯(ほうらいゆ)」をはじめ、周りには5件の銭湯がありました。今はみんな無くなりました。新開地市場がまだビルになる前にあった銭湯の権利を譲ってもらい開業したと父から聞いたことがあります。オープンの時は宣伝飛行機を飛ばしたり、ちんどん屋さんを繰り出したりの派手な宣伝をしました。
——私もかすかな記憶ですが、大きくて豪華なお風呂屋さんが出来たことを覚えています。当時はお風呂がないお家は珍しくなかったと思います。
西坂氏:その頃は家族を含め11人が働いていました。女湯の方には赤ちゃんのベッドがあり、お母さんがお風呂に入っている間赤ちゃんのおむつを替えたりして面倒を見る人も3人いましたね。両親が仕事を終えて、休むのが午前5時。店の前ですれ違う新聞配達や牛乳配達の人からの「おはよう」のあいさつに「おやすみなさい」と返事していました。閉店が午前2時でしたからね。
——商売をしているお家では親はあまり子供にかまってやれない、そんな時代でしたね。
西坂氏:そのおかげで、よく遊びました。野球が大好きでした。「少年野球チーム」などはまだ無い時代でしたから、同級生たち仲間でチームを作り、よその小学校のチームとしょっちゅう試合をしていました。観音池公園はその頃は何もない原っぱでしたから、野球をするには格好の場所でした。今住友銀行の駐車場になっているところは当時はゴミなども捨てあった空き地でした。ここでも野球をしていました。岸田クリニックさんの裏辺りには小さな池があり、大雨の跡には大きな鯉やフナが岸に打ち上げられていました。この池ではザリガニ釣りをよくやったものです。
——銭湯もだんだん少なっていますね。
西坂氏:豊中市で昭和45年には76軒あった銭湯が今は24件になっています。大阪市内では月に約4件づつ無くなっていっています。私のところでも昔のようには人は来ません。でも「ええ湯やった。気持ちよかった」と言ってくれるお客さんの顔を見てたら、有難い、頑張って続けようと思います。「家に風呂はあるけど、やっぱりここでないとあかん」と言って、桂枝雀さんもよく来られていました。
——お風呂屋さんはみんな裸の付き合いができる「まちのサロン」の雰囲気がありますね。
西坂氏:私のお風呂でみんなが触れ合い「きずな」が出来る、そんな銭湯になってほしいと思っています。毎週土曜日は保護者1人に付き子供3人まで無料の「親子ふれあいデー」や毎月15日は65歳以上の方は100円の「ふれあい入浴」、市内の銭湯16店が加盟して、持ち回りで開催する「ぬくもりサロン」では寄席やコンサートもやっています。いろいろな催しを通じて、親子やまちの人たちの「きずな」が深まればと思っています。クリスマスイブには照明を消してロウソクの灯りだけで入浴してもらう「アロマキャンドル風呂」もやっています。
——今日はありがとうございました。

※プロフィール:西坂 昇氏/「豊中温泉」店主 昭和24年生まれ


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