【豊中駅前の歴史:102】一枚の豊中駅前の写真(2019年3月)

一枚の豊中駅前の写真
読者の方から一枚の写真を頂きました。「いつ頃の駅前なのでしょうか。その頃の駅前の様子が知りたいです」とのこと。そこで松浦さんを訪ねました。

——いつ頃撮った写真でしょうか。
松浦氏:豊中駅前とは思えない長閑な風景ですね。人工広場(人工デッキ)が完成したのが昭和42年(1967年)、と言っても今の駅前広場ではなく、電車に乗るために国道を跨ぐデッキに上がり、1階に降りて乗る構造で、上下線を中跨線橋(こせんきょう)で繋いでいました。この写真は人工デッキができる前の駅前で、車も1台しか写っていないので、昭和30年代の前半頃だと思いますね。写っている花壇は今の駅前広場支柱がありその下に花壇があるところですね。マストメゾン側の、この頃でしたら風呂屋さんがあった辺りから撮ったのでしょうね。
——風呂屋さんのお話はこのシリーズの第1回目の「新開地市場の誕生(2009/3)」で伺いましたね。あれから10年経ちました。駅前の今昔、七夕まつりの始まり、稲荷神社の秋祭り、お墓のことなど、この間いくつものまちの歴史を語って頂き、お陰様で今回で102回目となりました。本当にお世話になりました。心から感謝いたします。お風呂屋さんがあった頃の様子は「第49回 寺内写真館(2013/9)」に寺内写真館のご主人のお話を載せています。
松浦氏:右端に「神戸屋パン」の看板が写っていますが、戦前からあったお菓子屋のカメヤさんが「神戸屋パン」を売っていました。小学校の頃は昼ご飯によく買いに行きました。「肉」と写っているのは西川精肉店です。そこから国道沿いにはたくさんのお店が並んでいました。シリーズ59「豊中駅前商店会」に載っていましたね。豊中駅の改札口の前にはタクシー乗り場があり、バスも乗り入れていたと思います。その頃のバスは桜井谷を通る箕面行きと豊中高校から三ツ池までの東豊中行きの2つの路線しかなかったはずです。左側に写っている電柱の下にお店がありますが何屋さんかは分かりません。このお店の隣辺りに国道に面して住友銀行がありました。今の場所に移ったのが昭和40年頃だと思います。「人工デッキ」の工事が始まった頃ですね。
——「人工デッキ」が出来てその下がバスターミナルになり、商店街を走るバスは急増し、国道は車で溢れ、まちの中にも車が沢山入り込み、車社会の到来の時代ですね。豊中駅前も車との戦いが始まるわけですね。
松浦氏:七夕まつりの始まりの話を以前にしましたが、商店街にバスや車が通っているようじゃダメです。七夕まつりのように商店街は人が自由に歩けるようにならなければまちの発展はありません。この写真の頃から10年ほど経って「人工デッキ」ができ、30数年後には今の人工広場が出来ました。まちは変わり続けます。今度は車に邪魔されず、人がゆっくりと楽しく歩ける賑わいのある商店街に生まれ変わる番ですね。
——今日はありがとうございました。いつまでもお元気でいてください。

プロフィール/松浦幸夫氏 昭和4年生まれ/本町1丁目在住 豊中市二大字共有墓地委員長/元・豊中駅前一番街商店会 会長/豊中駅前まちづくり会社顧問


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