【豊中駅前の歴史:72】「戦争を振り返る-5」(2015年11月)

「強制疎開(建物疎開)の思い出」
今から74年前、1941年(昭和16年)12月8日に日本は太平洋戦争に突入しました。その開戦日を前に、戦時中の悲惨さを忘れないため、今一度戦争を振り返りたいと思います。今回は本町3丁目にお住まいの辻本さんにお話を伺いしました。
——辻本さんは、2008年開催のアイボリーフォーラムで空襲の恐ろしい体験談を話されましたね。今日はそのお話の中の「強制疎開」についてお聞きしたいと思います。
辻本氏:「強制疎開」とは被害に遭わないために、他の地に移ることだと思われますが、戦時中は焼夷弾から延焼を防ぎ重要施設を守るため、民家を強制的に取り壊すことでもありました。私たちの家の周りでは昭和20年の6月から7月に掛けて、家屋を取り壊す「強制疎開」が行われました。刀根山道の入り口(現:都そば前)で、道路の西側か東側かどちら側を壊すのか協議された結果、家が建て込んでいる東側より、空き地の多い西側と決まりました。千里川までの西側の家や建物全てを取り壊すのです。近隣の大人は勿論、当時は「国民学校生」と呼ばれていた小学生までも動員して、ロープを掛けて引き倒す。容易に倒れなければ柱を何本か切り、無理矢理に引き倒すやり方です。
——酷いことをするものですね。
辻本氏:我が家が引き倒された時、庭の「防空壕」の上に瓦礫が覆い被さってしまい、入る事ができなくなりました。母が「空襲があったら、私たちどうすれば良いの」と叫ぶと、幸い心ある近所の小父さんたちが瓦礫を取り除いて下さいました。もっと酷いのは、今はスーパーのサンデーになっているお家です。道路際の門からかなり奥まったところに母屋があったのに、「軍の命令だ!」と言って、その母屋まで取り壊わされてしまいました。引き倒された柱も、「この柱はみんなお国のものだ!横取りする奴は国賊だ」と怒鳴る者までいて、結局、材木は切り刻まれて、薪にされたそうです。
——戦争は人間の心を狂わしてしまいますね。
辻本氏:6月の7日に1トン爆弾の雨。追い打ちをかけるように15日には無数の焼夷弾が落とされ、家族や友人知人を失い、住む家も無くなった人たちが沢山いました。2度の烈しい空襲でみんな正気を失っていたのかも知れませんね。
——刀根山道にはそのような過去があったのですね。
辻本氏:当時、刀根山道は都市計画道路になっていて、道路を拡幅する必要がありました。空襲も烈しくなり、延焼を防ぐという名目で行われた強制疎開は有無を言わさない「土地収用」だったのではないかと、今になって思うことがあります。当時小学6年生だった私の一生忘れられない辛い思い出です。
——今日はありがとうございました。

プロフィール/辻本 龍男 氏 :昭和8年生まれ/本町3丁目在住


※豊中駅前の歴史を振り返るのバックナンバーはこちらをご覧ください。