【豊中駅前の歴史:33】能勢街道について(3)(2012年2月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。

今号は引き続き、大阪大学名誉教授「脇田 修」先生の冊子から、お話を要約してお伝えします。
【江戸、京を照らした北摂の「菜種」】
北摂地域の農業のもう1つの特色は、菜種の栽培でした。私が子供の頃は、春になるとこのあたりは菜種の花でまっ黄色になるほどでした。菜種は種を絞って油をとるわけで、その油は当時は食用ではなく、燃料、灯油でした。土器(かわらけ)に油を入れ灯芯で灯りをとるわけです。近松門左衛門に「女殺油地獄」という天満の油屋を舞台にした作品があります。実際天満あたりには油屋が多く、大坂の町で盛んに油が生産されていた様子がわかります。江戸時代前期には京都はもちろん、江戸でも大坂産の油で灯火がまかなわれており、その原料である菜種は全部北摂地域のものでした。
【3月の花見といえば「菜種」】
当時は「菜種の花見」というものが行われていました。梅田近くの茶屋町に「鶴の茶屋」という石碑が建っていますが、この茶屋は菜種の花見のころが一番はやったということです。また、曽根崎の「お初天神」から寺町へ抜けるところには、菜種御殿という遊郭があり、その北から北摂地域にかけては田んぼばかりでした。その菜の花が咲き誇る田んぼの中に能勢街道が通っていたわけです。
【いろいろな産物】
豊島郡は明治時代に能勢郡と合併して豊能郡となり、その大部分が豊中しになっていますが、このあたりでは、非常に質に良い豊島筵(てしまむしろ)や藁、縄などが作られていました。また、野菜の産地でもあり、大坂の町に蔬菜を供給していました。守口大根に匹敵する椋橋(くらはし)の大根がありました。熊野田の門松が大坂で売られていた事も地誌に記されています。このように北摂地域は大坂の郊外としては非常に豊かな土地であり、日本全体を通じて見ても、大変豊かな農村地帯であったと言えると思います。
【戦国時代の北摂地域】
北摂地域には、春日社領と東寺領の非常に大きな荘園、垂水庄というのがありました。またこの他にもいろいろな荘園があり、「椋橋の庄」が一番有名です。庄内や庄本町などの名は、そこから来たものです。春日社領の桜井を見ると、池田や麻田、河原林、野畑、桜塚、小路、新免などはみんな室町時代から続く名前ですから、当時からそういう集落があったと考えていいと思います。
【北摂地域の戦国武将】
織田信長が出てきたころ、豊中には原田城、刀根山城、椋橋城などの城があり、侍としては柴原氏が活躍していました。この信長と伊丹の城(有岡城)の城主荒木村重との合戦が、この地域での一番大きな戦闘でした。荒木村重は室町幕府が滅亡するころに信長から評価され、摂津守護という摂津全体の支配者になりました。吹田から豊中あたりの地侍は全部この荒木村重の家来でした。ところが秀吉の毛利攻め最中に反乱を起こし、戦いに敗れ毛利まで逃げ乱は終息します。また、高槻城主のキリシタン大名の高山右近は有名です。茨木城主の中川清秀は大坂には珍しい勇猛果敢な武将でした。賎ヶ岳の合戦で戦死するのですが、この合戦での猛烈な抵抗が秀吉側の勝利に導いたといわれています。「賎ヶ岳合戦屏風」には中川清秀が一騎打ちをしている図柄が残っています。豊中ではこの中川清秀の兄の村秀の子供である中川喜兵衛が元亀三年(1572年)に内田村を開発したとい伝承が残っています。

——この冊子は平成6年11月15日、豊中駅前と岡町の両協議会が主催した「阪急高架(上り)開通記念講演会」~近世の大阪 そして とよなか、能勢街道 もう一つの街道を見直す~の内容を要約したものです。まちづくりセンターにてカンパ1部300円で取り扱っています。


※豊中駅前の歴史を振り返るのバックナンバーはこちらをご覧ください。