【豊中駅前の歴史:82】昭和30年代頃の豊中駅前(2016年11月)

前回は新開地ビルが建って人工広場が整備され、その下にバスターミナルが設置されるなど現在のまちの形が定まる間近の駅前の姿をお伝えしました。今回は昭和30年代頃の長閑な駅前を写真で振り返ります。
写真1は正面にバスが走っている道が銀座通りです。右手には「トヨシン」と呼ばれ親しまれていた「豊中信用金庫」があります。北おおさか信用金庫の前身です。その奥には「新開地市場」があり、銀座通りに入口がありました(写真2)。昭和23年に「阪急豊中市場」が火災した時に、それまでの商店主や大阪市内からの商業者などで新たな市場を造ったと聞いています。バスの後方左側にその「阪急豊中市場」があります(写真3)。昭和の初めから昭和57年に解体されるまで、駅前の商店街の発展に尽くし、周辺の住民の暮らしを支えてきました。バス停「市場前」は名残です。現在は「チェリオビル」になっています。この頃の市の資料によると、豊中駅前の店舗数は市内の各駅前の中で一番多かったようです。
写真4は当時では滅多に車が通らないので刀根山道の真ん中で遊んでいる風情です。現在の一番街の「キリヤ」の前あたりで、左側には「あさい模型店」があります。
写真5は大阪市バスの豊中駅前までの乗り入れを祝したモニュメントです。「昭和35年の4月に開始され、阿部野橋から豊中間の18キロを約1時間ほどで結ぶ路線であった」と聞いています。まだまだ自家用車が普及する時代ではなかった頃に、電車だけでなくバスで大阪市内を行き来できた事は当時の人たちは有難かったのでしょう。右側に○正のマークがある建物があります。「当時まちの百貨店として高級品を売っていた」と古くからお住まいの方々からよくお聞きするお店“まるしょう”です。
このように昭和30年代頃は車社会の到来からは遠く、駅前でもまちの中に入り込む車も少ない時代でした。大阪万博が開かれた昭和45年を境に豊中駅前は大変な賑わいのあるまちに変貌していきます。それは人と車と自転車との戦いに明け暮れる時代でもあり、現在も続いています。車に邪魔されずゆっくりと楽しく歩く人たちで賑わうまちを願う者にとって、この時代から学ぶ事があるように思います。


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