【まちなかの散歩:99】先人に学ぶ(2016年11月)

 このコラムも今回で183回になる。“よくもまぁ、だらだらと続けてきたものである”と嫌味(183)を言う輩もあり、“継続は力である”と言って庇ってくれる御仁もある。新聞記者だった友人が、「最近は肩に力が入らなくなってきたなぁ」とコメントしてくれるが、歳を重ねて枯れてきた、諦めが目立つと暗に言われているようで、少しも嬉しくない。日本ハムの大谷翔平並みに柔らかな肩に力を込めて165キロの剛速球を投げ込んでみたいのだが、如何せん柔らかさも凄みもないことは認めざるを得ない。ということで嫌味も甘んじて受けるとするが、継続を褒めてくれる方々には量的評価も有難いが、質=内容=趣旨に賛意をもって更に行動してもらえると言葉にない励ましになると欲を言ってみたい心境である。
 さて、長年の継続という点では「豊中まちづくりフォーラム」も100回が過ぎ、この11月で105回を数えるに至っているが、この間に私が人知れず重ねてきた西国三十三か所巡礼の旅を間もなく終えることになる。村人を招いて夜更けまで「ご詠歌」の稽古をつける信心深い祖母の傍で幼い頃から過ごしてきたので、仏事で「ご詠歌」を唱えてはきたが、習わぬ経を読んでも実在の寺とが結びつかず、いつか時間が出来れば訪ねてみたいものとずっと思い続けていた。それがやっと叶って宿題がまた一つ片付く。これで自ら仏(ほっとけ)の世界に近づいてきたなと思いながらも、さらに邪念が浮かんでくる。
 そして過日、旧北陸本線トンネル(群)廃線敷を歩いてきた。第103回(9月開催)の豊中まちづくりフォーラム『港と鉄道のまち敦賀』(増田正樹観光ボランティアガイドつるが事務局長)で紹介された明治時代の近代化遺産であり、基礎部が石で壁面から上部が赤レンガ造りの土木学会の推奨土木遺産であり国登録有形文化財(建造物)である。今もビクともせずに福井県道として機能をいかんなく発揮し、その壁面は芸術的であった。近年、地元観光案内のツアーバスも運行されている道を車・バイクが時々走り抜けていった。
 日本の鉄道敷設計画は明治2年に策定。幹線は東京-京都で敦賀は琵琶湖経由(船!)で京都と接続。明治15年敦賀まで鉄道が開通、その後明治29年から北進を開始しているが、明治45年には大陸への「欧亜国際連絡列車」が運行開始し新橋~敦賀に直通列車が運転されている。トンネルの南側・福井県敦賀市と北側・南越前町今庄を鉄道フアンならご存知の1000分の25という当時の列車では限界とされた急勾配が延々と続く中、途中スイッチバックの箇所を設けて最長1.2kmの大小12のトンネルを掘っている。基礎部の石材は地元で調達できたが、レンガは四日市でつくられ下関を廻って敦賀港から人力で建設現場まで運ばれたという。雪深い山中での工事が如何に困難であったか。また蒸気機関車の運転手を窒息死させる煙害と闘う壮絶さの中の運行だったという。北陸新幹線敦賀まで延長のトンネル工事用の建設飯場だけが山間部にひっそりと建っていた。
 明治の近代化を偲ばせる、このトンネルがいつか産業遺産になるのだろうか。“愛国心”“郷土愛”は、先人の偉大さを発見できる旅でも知ることができたのだった。

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.184に掲載)


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