【豊中駅前の歴史:74】スクランブル交差点(2016年2月)

今号では、現在、大阪府が抜本的な改良工事を検討している「スクランブル交差点」について、新免村の歴史に詳しい土橋房治さんと振り返ります。

——スクランブル交差点がいつ頃できたのか、知りたいと思っておりましたら、昭和40年代の写真を数枚提供していただきました。1枚は昭和47年に写されたもので、よく見ると右の方に横断を誘導するためか、警官が立っています。白線も引かれて間も無いように見えます。別の昭和42年の写真には白線はありません。どうも昭和47年頃にできたと思われます。
土橋氏:昭和47年といいますと、「とよしん(豊中信用金庫:現北おおさか信用金庫)」に勤めていましたが、本町支店ではなかったので、詳しくは憶えておりません。
——年代は別にして思い出すままにお聞かせください。
土橋氏:私は昭和28年に大池小学校を卒業しましたが、その頃の学校の前の道はもっと狭かったように思います。昭和30年代に今のように道路が広くなり交差点ができたのでしょうね。
——この写真と今とでは交差点の形状は同じですが、面しているお店は全く違いますね。
土橋氏:コカコーラの看板が写っている辺りは、うちだ酒店の倉庫と配達の車の置き場ですね。お店は向かい側の建物(白雪の看板が写っている)の中にありました。このような建物が郵便局を挟んで、稲荷神社に向かって並んでいました。その後、島田無線のビル(現ジョイフル豊中)が建ちました。「さとすし半」や大きな呉服屋さんがあった時代もありましたね。
——私が憶えているのは、うちだ酒店の倉庫だったところが「アーチプラザ」と呼ばれ、中庭に面してイタリアンやパンのお店があるお洒落なポケットパークでした。今は歯科医院となっている所のうちだ酒店は、その頃は1階がスーパーで2階はグランドピアノがある「うちだサロン」でしたね。
土橋氏:「ライフ」の1号店が稲荷神社の前にできたのが、昭和36年ですが、その頃は洋服の仕立て屋さんや漢方薬の薬屋さんなどがありました。今のように「ライフ」までお店が並ぶようになったのは、スクランブル交差点ができる頃からではないでしょうか。
——この写真には自転車が全く写っていませんね。
土橋氏:この頃はみんな歩きましたね。今のように近くに行くにも自転車に乗るということはなかったと思います。私は仕事で「ラビット」に乗っていました。その頃は車の渋滞がひどいものでしたので、車より早く取引先に着けました。その頃は物を運ぶのは「ミゼット」でしたね。
——箕面街道の方も思い出してください。
土橋氏:今、花屋さんがあるビルはお米屋で、箕面に向かって、耳鼻咽喉科、銭湯の「新豊中温泉」、貸本屋さんがあって、その先はお屋敷が2軒並んでいました。そこから先は田んぼが広がっていました。交差点の方はというと、角が「日進堂」の本屋さん、時計屋さん、その隣が確か写真屋さんで「花本寫眞場」、自転車などがあったと思います。そして豊和信用組合(現三井リハウス)、杉本の傘屋さんで、隣の荒物屋さんから阪急市場となっていました。
——今日はありがとうございました。

プロフィール/土橋 房治氏 昭和15年生まれ 本町3丁目在住60余年


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