【豊中駅前の歴史:97】豊高道を振り返る-2(その2)(2018年8月)

今号も引き続き内田裕康さんからお話を伺います。

——写真Aに写っているのは阪急バスですか。いつ頃でしょうか。
内田氏:昭和22~3年頃に撮ったものではないでしょうか。HANKYU.BUSとローマ字になっているのは、占領下にあった時代だったと思われます。車体ナンバーが「兵6.436」とあるのは、戦時中に物資を運んだ名残でしょうね。ひょっとしたら、「木炭バス」かも知れませんね。阪急バスは、昭和2年に香枦園から苦楽園までの運行から始まり、吸収合併を繰り返しつつ、北摂地域や大阪市内への乗り入れなど、エリアを広げていきます。昭和9年には「桜井谷村営バス」も吸収されています。
——火葬場へ行く参列者を乗せているのでしょうね。
内田氏:前を行く霊柩車の前方に、スクランブル交差点の当時の姿が見えますね。バスの前方の右の電柱の前が「内田酒店」です。看板が架かっていますね。
——写真Bは前回お話にあった借家ですね。
内田氏:昭和40年代後半の写真だと思います。焼き芋屋、時計屋、食料品店、スポーツ用品店、漢方薬専門店、不動産屋などが軒を並べていました。スーパー「ライフ」の1号店が稲荷神社前にオープンしたのが昭和36年(1961年)です。当時珍しさもあり「ライフ」へ行く買い物客は多く、店の前の人通りも多かったようです。その後、駅前が整備され、新開地ビルが建つと、次々と駅前へ移転して行きました。ちょうどその頃の写真だと思います。
——交差点も整備されていますね。
内田氏:スクランブル交差点になって間もない頃ではないでしょうか。信号機も新しいですね。交差点の奥に「阪急市場」の看板が見えていますね。大池小学校の前の道を広げる時には、当時倉庫にしていた土地を道路に提供しました。その後、アーチプラザの時は歩道を広げるため壁面後退しました。写っている石碑が物語っていますね。
——2枚の写真でスクランブル交差点の変遷が良くわかりました。今日は有難うございました。

プロフィール/内田 裕康 昭和23年生まれ 東豊中町在住/(株)未来協会さくらCEO


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