【豊中駅前の歴史:54】ホテルアイボリー前の道(その2)(2014年3月)

今回は豊中駅前におよそ60年間在住され、冊子「新免村をもっと理解するために」を作成された、土橋さんにお話をお伺いしました。

——土橋さん、お久しぶりです。このシリーズでは「刀根山道の今・昔」(2009年9~11月中旬号掲載)や「新免について」(2010年2月中旬号掲載)など大変お世話になりました。今日は土橋さんの子供の頃のお話をお聞かせください。
土橋氏:昭和20年の終戦の時が5歳ですから、小学生の頃というと昭和25年から30年頃の思い出になりますね。私の実家は上野治療院と新免館が向かい合う道の突き当りにあります。今はマンションに建て替えましたが、その頃は家の近くには畑や空き地が沢山あり遊び場には事欠かなかったですね。
——一番街から入る南角が牛乳屋さんだったと、前回上野さんにお聞きしました。
土橋氏:その牛乳屋さんから一番街沿いに駅に向かって住宅、建材店、自転車屋が並んでいました。そこから先は空き地や農園になっていました。建材店では防空壕跡をため池にして「カワウソ」を飼育していましたね。毛皮にするためなのでしょうか。
——アイボリー前の道はどんなでしたか。
土橋氏:北角はその頃は未だ水道屋さんはなく、昔ながらの大きなお家でした。その横の私の実家へ続く路地を挟んで、土蔵があり趣のあるお家がありました。笹川良一さんのお妾さんが住まわれていたと聞いています。実は私が幼い頃に我が家にも笹川良一さんが手土産を持って遊びに来られていました。「巣鴨プリズン」からそのお妾さんに送った手紙の中に「・・・山西両家、南、内山、土橋————その他皆様へも可然(しかるべく)お見せして御無沙汰のお詫びをお願いします。」とあり、ご近所付き合いも良かったようです。その後に住まれた方は船場で衣料品の販売をされていたと聞いています。今は新免館になっていますね。
——その隣に山西さんの広いお屋敷があったのですね。
土橋氏:176号に出る角には歯医者さんがありましたが、そこまで一帯がお屋敷でした。正面には長屋門があり、邸内には今も残るカヤの木やクロガキ、松の木などが植えられていました。お屋敷の北西方向に向かって斜めに伸びる「寝松」に登ってはよく叱られたものです。また庭が大変広く、竹藪は遊び場には格好で、勝手に入っては遊んでいました。お屋敷の向かいには広い前庭がありそこでもよく遊びました。今はパチンコ店やマンションが建っていますね。その隣は路地を挟んで南医院という内科があり、国道に沿ってさくら製パン、ガラス店、材木店が並んでいました。現在近畿大阪銀行が建っている辺りですね。
——今日は有難うございました。昭和30年頃のアイボリー前の道の様子がよく判りました。

※プロフィール:土橋 房冶氏 昭和15年生まれ


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